京阪神を爆速で結ぶ…あの無双の新快速にも「苦戦」の時代があった 不動の地位を築いたのは「民営化後」

新田 浩之 新田 浩之

京都、大阪、神戸を結ぶことで、おなじみのJR西日本の新快速。関西を代表する列車だけに栄光の歴史を歩んできたと思われがちですが、実は苦難の下積み時代もあったのです。新快速の知られざる歴史について調べてみました。

中途半端な登場だった新快速

新快速が登場したのは大阪万博が開催された1970年のこと。実際には、万博終了直後の10月1日にデビューしました。

当初は現在とは大きく異なり、1日わずか6往復の設定。運行区間は京都~西明石間で、停車駅は大阪駅、三ノ宮駅、明石駅のみでした。東海道新幹線が乗り入れる新大阪駅にも止まらず、京都~大阪間は多くの特急列車よりも速い32分で走破しました。

しかし、最初から京阪神間の主役に躍り出ることはありませんでした。主役になり切れなかった理由として、使用車両が挙げられます。

初代新快速の車両は、直角ボックスシートとロングシートが混在した113系でした。京阪間のライバル私鉄、京阪、阪急は当時から特急専用車両として、転換クロスシート車両を使っていました。直角ボックスシートと転換クロスシートの違いにより、快適性で大きな差が生じていました。

ちなみに、塗装は関東の横須賀線・総武線などで見られた白色と青色の組み合わせでした。この組み合わせは関西では珍しく、インパクト抜群だったに違いありません。しかし、塗装が斬新であっても、より重要な点は車内設備ですから。

二つ目はダイヤ構成です。新快速登場前の京阪神間は、快速、普通の2本立ての整ったパターンダイヤでした。ここに、新快速が1時間間隔で突入した感じになり、ダイヤ構成が乱れることに。その結果、普通が快速の連絡と新快速の通過待ちで長時間停車したり、普通のみ止まる駅では、20分以上も電車を待つ場合もありました。

さすがに、このような中途半端な状態が続くことはなく、1972年には新快速が15分間隔になりました。車両も、急行型車両153系を経て、1980年に転換クロスシート車両117系が投入されました。

運賃の値上げが追い打ちに

それでも総合的に見て、新快速が優位に立つには時間を要しました。最大の要因は、国鉄当局による運賃値上げです。当時の国鉄は膨大な債務に悩んでいました。その結果、運賃値上げで何とかカバーしようとしたのです。

国鉄は1978年から民営化直後の1986年まで、断続的に運賃値上げを行いました。その結果、国鉄と私鉄との運賃差が拡大したのです。あまりにも運賃差が拡大したので、国鉄はライバル区間を安くする特定区間の導入や、割引切符の販売など、懸命な努力をしてきたのです。

1986年当時の京都~大阪間における国鉄の普通運賃は、特定区間の適用により510円でした。一方、京阪(三条~淀屋橋)は310円、阪急(河原町~梅田)は300円でした。

参考までに、現在はJRが580円、京阪が430円、阪急が410円です。国鉄時代の方が運賃差があったことが、よくわかります。

また、国鉄時代の新快速は内側線(電車線)を走っており、停車駅が少ないわりには私鉄特急との間に、圧倒的な所要時間差はありませんでした。現在のように、外側線(列車線)を走るようになったのは、1986年11月ダイヤ改正以降のことです。ようするに、新快速が今日のような不動の地位を築いたのは、民営化後ということになります。

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