「私」という症例があるのに“症例なし”とされ、持病の治療に関する研究が進んでいない現状を変えたい。そんな想いから、SNSなどで自身の病気を積極的に発信するのは、花田はるかさん(@paruru_103)。
はるかさんは大脳の運動神経を司る部分の神経が壊死し、全身の筋肉が正常に動かない進行性の病気「両側線条体壊死症」と、30年近く生きてきた。
初めの異変は「よく転ぶ」だった
はるかさんは発達が早く、生後10カ月で歩けるように。だが2歳を過ぎたころから、よく転ぶようになった。吃音のようなどもりも見られ、母親と買い物へ行くと、すぐに座りこんでいたという。
違和感を覚えた母親は整形外科を受診させたが、骨に異常はなく、「精神的なものではないか」と言われたそう。その後も症状はよくならず、様々な整形外科を訪ねるも、同じような診断をされた。
そんなある日、はるかさんの様子を気にかけていたママ友から小児科の受診を勧められ、地元の小児病院へ。すると、すぐに大学病院を紹介された。大学病院に行くと、即入院。検査の結果、大脳の運動神経を司る部分が壊死していることが判明した。
「唯一の心当たりは、発症前に近所の子とキッズスペースで遊んでいた時に負った怪我です。後ろから押されて頭をぶつけました。出血はなかったけれど、瞼が開かないほど頭や額が腫れました。明確な根拠はありませんが、もしかしたら、その怪我が関係しているのかもしれません」
病気に理解がない担当教諭との関係性に悩んで転校
医師は先天性ではなく、後天的な病気であると診断。他の大学病院に同じ症例がないか問い合わせたが見つからなかったため、壊死している部分の名称を取り、はるかさんの症状に「両側線条体壊死症」という病名をつけた。
はるかさんは3歳ごろまでは歩けていたが、7歳ごろからは何かにつかまらないと立っていること難しくなり、その後は車椅子が足となった。
小2までは普通学校へ登校。体調を考慮し、午前中のみ授業を受けるなどしていたが、クラスメイトは対等に接してくれた。
だが、楽しい学校生活は小3のころに一変。はるかさんの病気に理解を示さない教師が学級担任となり、ぞんざいな扱いをされるようになったのだ。防災訓練の時に担任教諭から言われた悲しい言葉は、今でも心に残っている。
「先生は、あなたのこと覚えてないから。自分で声を出して助けを求めないと、連れて行かない」
そんな言葉を告げる担任教諭との関係性に苦しんだはるかさんは心を病み、入院。そして、小4になっても学級教諭が変わらなかったため、養護学校への転校を決意した。
だが、養護学校のクラスメイトは1日中学校にいられないはるかさんの体調を知らなかったため、悪口を言うように。仲間外れにされる日々は辛かったが、勉強がしたいとの思いから、はるかさんは登校し続けた。
「分身ロボットカフェ」と出会って世界が広がる
養護学校を卒業した後はフルタイムでの就労が体力的に難しかったため、就労継続支援B型事業所へ。しかし、時給200円ほどの給料から送迎代と食事代が引かれ、手元に1000円ほどしか残らない生活に虚しさを感じた。
内職を考えるも、病気によって細かい作業が難しいため断念。それでも、なんとか自分の力で安定した収入を得たいと思い、Webライターを目指す。
「でも、得られた仕事は労力と単価が見合わないものばかり。2~3年続けることが精いっぱいでした」
そこで、カラーセラピストの資格を取得。人と話せ、誰かの役に立てる仕事に就けて嬉しかったが、収入は安定せず。
そんな時、偶然SNSで目にしたのが、株式会社オリィ研究所が運営する「分身ロボットカフェ DAWN ver.β」のオープニングスタッフ募集。ここは障害や病気、介護など様々な理由で外出困難な人が自宅から“分身ロボット”を遠隔操作し、接客業を行うカフェだ。
初めて知った働き方に興味が湧き、スタッフ募集に応募すると見事、採用。ロボットカフェでオーダーを取ったり、受付をこなしたりと大活躍するようになった。
「今はもうひとつ、リモートワークをしながら暮らしています。収入も安定し、自立して生活できるようになりました」
亡き母の言葉が日々の支えに
例えるなら、120kgの重りを背負ってフルマラソンをしているような状態。担当医は、はるかさんの日常を、そう表現する。
疲労感が消えない日々を乗り越えられるのは、心の根底にある母からの教えが支えになっているからだ。
「母はよく、『あなたは誰かにお世話をしてもらう時やできないこともあるけれど、できることだってある。あなたができることをして、誰かの役に立ちなさい』と言いました。だから、私は自分にもできることがあると思っています」
わがままな人間ではなく、かわいがられ、愛される人間になりなさい。何かをしてもらったら「ありがとう」、ダメなことをした時は「ごめんなさい」がちゃんと言える人でいてほしい。
そんな言葉も口にしていた母親は子どものころ、「歩きたい」と泣くはるかさんに厳しくも優しい言葉をかけたそう。
「泣きわめいて終わる1日と、楽しく笑って終わる1日ならどっちがいい?あなたの病気は、命に別状があるわけじゃない。人生は長いし、あなたの病気は治らないけれど、生きていかないといけない。だったら、ふさぎ込む人生と笑って終える人生のどっちがいい?」
きっと母親は我が子の未来も思い、この言葉をかけたのだろう。残念ながら母親は、はるかさんが20歳のころにガンで亡くなったが、余命3カ月と宣告されながら3年も生きてくれた。
「そういう母の姿も見てきたからこそ、私は障害があっても、色んなことを諦めてほしくないと思います。正直、辛いこともたくさんあるけれど、自分の心に折り合いをつけ、気持ちを切り替えながら、“今”を楽しんでほしい」
はるかさんは現在、全身の筋肉が正常に動かなくなっていく「パーキンソン病」の治療薬を数種類服用したり、硬くなっていく筋肉にボトックス注射を打ったりして担当医と共に治療法を模索中。
もし同じ症状の人が現れた時、安心して生きられるよう、自身の病気に関する研究が進んでほしいと願っている。
「私自身は治してほしいよりも、進行してほしくないという気持ちが強い。いつまで動けるのか、この先どうなるのかと未来が不安になります。他の病気に新たな治療法ができた時などは、『私には何もない』と心がザワついてしまいます」
見えない未来を想像することは誰だって怖くて、苦しい。そんなはるかさんの孤独感が広く知られ、歯がゆい現状が変わることを心から願う。