ふだん気にすることなく通り過ぎる道ばたの電柱類。目線を変えて京都市内を歩くと、まれに丸みを帯びた物体が上に乗っかっている古びた鉄柱を見つけることができる。
橋の欄干や神社の階段などでよく見る「擬宝珠(ぎぼし)」のようなデザインがあれば、「UFO」や「ベレー帽」のような形をしたものまで。
なぜ、ほとんど誰も見ないような位置にわざわざ、ちょっとかわいい飾りを乗せているのだろう。なにかのシンボルだろうか。
実はこれ、旧京都市電で使われていた架線柱。全線廃止からもう45年がたったのにまだ残っている。
親子二代で旧市電を愛し、架線柱を調べつくす「廃線ウォッチャー」の中村浩史さん(59)=大阪府茨木市=と街を歩き、未知なる世界をのぞいた。
待ち合わせは四条大宮のロータリー(下京区)。二条駅に向かって斜めに伸びる後院通は電線地中化工事の真っ最中で、歩道の拡幅も進みつつある。
「じきにここも撤去されることになるでしょう。風前のともしびです」。中村さんは市バスのみぶ操車場近くにある年代物の鉄柱をさびしそうに眺めた。信号と標識が柱にくくりつけられ立派に役目を果たしているが、後院通はかつて市電が走り、この鉄柱は元々架線柱だったという。
中村さんによると、旧市電の鉄柱かどうかを見分ける方法は大きく二つある。
柱を固定するリング状の基礎部分が接地面にあるかどうか。もう一つが、柱の一番上に乗っている飾り。デザインは大きく3パターンあり、中村さんは「擬宝珠型」「UFO型」「ベレー帽型」と呼んでいて、後院通の架線柱は「擬宝珠型」にあてはまる。
曲線や丸み、シルエットは美しい。なぜ当時の京都市は柱の先にまで意匠を凝らしたのだろうか。
中村さんは「コストカットが叫ばれる現代の感覚からすれば必要はないが、昔の時代だからこういうものを作れたと思う。柱一つ取っても長く使おうという精神があったんでしょうね」と思いをはせた。
次に市バスで向かったのは千本寺之内(上京区)。「あれです」と中村さんが指さした先には、「車社会 歩くあなたも その一人」と書かれたレトロな看板が立てかけられた鉄柱。上の方に目をやると、やっぱりあった。「UFO型」だ。
「擬宝珠型」と違い、てっぺんが扁平になっている。スーパーマリオのきのこのようにも見えるが、UFOと言われればUFOに見える。
柱の高さは7~8メートル。長年の使用に耐えているせいか傾きがややみられるものの、信号と地名標識に使われ、活躍している。中村さんは「だからといって安心はできません。(電線地中化や更新の)予算が取れたら撤去されてしまうかもしれない」と口にした。
中村さんは下京区出身。実家の前をゴトゴト走る旧市電の音を聞いて育った。架線柱の残存調査に最初に取り組んだのは2012~13年。高速道路建設などに伴い市南部の道路が改修される中、旧市電(伏見線)の架線柱が一気に消えたことに危機感を抱いたのがきっかけだった。
かつて市電とトロリーバスが走っていた沿線を1年近くかけてくまなく巡り、立地場所と現在の用途、頂部の形状を一つ一つ調べていった。中村さんの推計では市電全盛期には1~2万本の架線柱があり、残っていたのは約110本だった。
それから10年がたち、昨年から今年の春にかけて再び調査した。すると79本に減っていた。「擬宝珠型」は32本、「UFO型」は28本、「ベレー帽型」は15本あることが確認できた。特に電線地中化が進んだ東大路通や河原町通、大規模改修が行われた賀茂大橋(上京区)のある今出川通で多く姿を消したことがわかった。
街の近代化や都市整備で架線柱は減っていく運命にあるとはいえ、中村さんは「まだこれほど多く残っている都市はほかにない。京都は奇跡的」と評する。市電があった東京、名古屋にはもう残っておらず、大阪や神戸もほとんどなくなっているという。これらの都市に比べて大規模な開発が進まなかったことが架線柱の「延命」につながったようだ。
3タイプの年代について、中村さんの見立てでは「擬宝珠型」が最も古い。市電開業の明治45(1912)年から大正時代にかけてのものが残っている可能性がある。次に古いのが昭和初期から戦前にかけて路線を開設した西大路通や九条通に集中する「UFO型」、そして戦後に市電が走った白川通や下鴨本通には「ベレー帽型」と、年代によってデザインに変化がみられるという。
中村さんの案内で「ベレー帽型」を見に行った。豆餅で有名な「出町ふたば」の近くにもあり、信号に使われていた。塗装がはげ落ちてすっかり赤茶けた柱の頂部に、鍋のふたのように小さな突起がある「ベレー帽」が乗っかっていた。
「いい感じに年を取っています。後ろのお店との景観もマッチしている。ここは残してほしいですね」と中村さん。愛情に満ちた言葉を聞いていると、柱にも「人生」があるように思えてきた。
最後に向かったのは、中村さんの実家に近い七条大宮(下京区)。南に延びる大宮通とJRの跨線橋にゲート状の大きな鉄柱が2本そびえ立っている。これも実は旧市電の架線柱で、「門型」「矩形(くけい)型」などと呼ばれる貴重な鉄道遺産。
数年前まで5、6本あったものの、今では2本を残すのみとなった。照明灯が柱に付けられ、陸橋の道路を照らしている。
「市電大宮線のこのあたりの開業が昭和10年ですので、その頃からあったものでしょう。九条通と京阪電車の跨線橋にも以前ありましたがなくなり、京都市内ではもうここだけです」と説明を加えた。
「京都市電の廃線跡を探る」という著書があり、町歩きのガイドツアーを手がける「まいまい京都」の案内役を務める中村さん。新幹線に乗って西から帰ってくるとき、車窓から京都であることを実感するのは東寺でも京都タワーでもなく、この「門型」の架線柱というから、やはり相当な廃線マニアだ。
中村さんと半日行動を共にしてさまざまな架線柱を見て回ったが、どれも老朽化が目立つ。市交通局によると、市電廃止後、警察や電力会社、道路管理者などに移管しており、撤去などはそれぞれの判断に委ねられるという。
一般的に、電柱がなくなり、街並みがすっきりして歩道が歩きやすくなることは多くの人に歓迎される。一方で架線柱のように京都に市電が走ったことを今に伝える存在が、意識されることなく消えていってはしのびない。一見ぼろぼろにしか見えなかった鉄柱も、視点を変えるだけで違う見方が生まれてくるのだから。
中村さんは消えゆく運命を避けられないからこそ、保存するタイミングにきているのではないかと考えている。それは、マニアのこだわりやノスタルジーにとらわれているわけではない。
「市電廃止から50年がたとうとしていて、市電が走っているのを知っている人も少なくなった。京都は日本で最初に路面電車が走った街であり、明治維新で天皇が東京に移った後に京都の産業を盛り返すための一つの手段が路面電車だった。京都を支えた産業遺産をできるだけ後世に伝えていきたい」とあらためて価値を訴えた。
中村さんの架線柱調査の詳細は以下のページから。