大阪の市街地に、約1.5キロメートルの距離を南北に走る4車線の道路がある。あまりにまっすぐなので、「もしや戦時中の飛行場跡か」と調べてたところ、なんと元は「運河」という意外な事実が判明。大阪の経済に貢献した重要な水路だった。
まっすぐ伸びる4車線の道路はさながら滑走路の如し
京セラドーム大阪から「みなと通」を西へ向かって走り、境川交差点を過ぎたあたりに、少し違和感を覚える交差点がある。中央分離帯のある4車線の道路がみなと通と交差しているのに、信号がないのだ。
この辺りはいったいどういう道筋になっているのかと思いマップを見たところ、なかなか面白い形が浮かび上がってきた。
この道路は、安治川・尻無川の間約1.5キロメートルを結ぶ「境川通」で、その約50メートル北側に「北境川通」、同じく南側に「南境川通」が平行して走っている。
北境川通から南境川通まで約200メートルあって、これだけの幅で約1.5キロメートルの距離を平行に走っているということは、もしかして元飛行場かもしれない。勝手にそんな見当をつけて調べ始めたら、元々は運河だったことが判明した。
港区役所によると、今の境川通は「境川運河」という水路だった。
築港工事が始まった1897年、現在の港区は広大な新田地帯で、交通路らしきものがほとんどなかったという。同じ年の8月31日から運河の開削工事が始まり、1902年4月に幅36メートル、延長約1.5キロメートルの運河が完成。これにより尻無川と安治川が水路で繋がった。これが「境川運河」である。
当時の物流は水運が主役で、境川運河の両岸には材木商、鉄鋼・機械などの工場も進出し、大阪の産業経済に大きく貢献したといわれている。
1943年、港区の人口が増加して市内最大となったため、港区の一部を隣の西区へ分割することになった。このとき港区と西区の境界が境川運河とされ、今でも境川通の中央分離帯が区の境界となっている。
戦後、物流の主役が水運から陸運へ移ったことと併せて、環境問題もあって沿岸にあった工場の多くがこの地を離れた。そのため、運河として利用されることが少なくなっていた。
1964年に、土地区画整理事業における高潮対策の一環として埋め立てられ、境川運河はその役目を終えて姿を消したのである。
境川運河が埋め立てられた跡地のうち、尻無川からみなと通までの約230メートル余りの地域は車が乗り入れない緑地帯になっていて、手ごろな散歩コースになっている。だが、これは公園ではなく、「境川運河線」という認定道路(道路法上の道路)だそうだ。
水の都といわれた大阪には、このような歴史を刻んだ道路が他にもあるかもしれない。