六畳+二畳のアパートに学生が集まり創刊した雑誌『ぴあ』 創業者が語る50年の歴史、書店業界の大物に直談判した秘話も

松田 義人 松田 義人

 

1972年、当時大学生だった矢内廣氏(創業者・現代表取締役社長)が「映画情報とコンサート情報をまとめた雑誌」として創刊された『ぴあ』。日本のエンターテインメント界における情報誌の草分けとして、またエンタメを楽しむ上で欠かせない雑誌として、2011年の休刊までの39年間愛されました。

雑誌発行と並行して、1970年代から映画フェス(現在の『ぴあフィルムフェスティバル』)を開催し、1980年代には電話注文でコンサートやイベントなどのチケットの予約販売を行う『チケットぴあ』をスタート。この事業は大成功を収め、時代に合わせたシステム刷新を行いながら今日も絶大な支持を得ています。

雑誌創刊から2022年に50周年を迎えた『ぴあ』ですが、創業者の矢内氏の初めての自伝が刊行されました。『岩は動く。』矢内廣・著(ぴあ)です。

 

矢内氏を中心とした経営陣による同社事業に対し、エンタメファンには「良質のサービスをもたらせてくれた」として親近感を抱く人もいます。こんな熱いファン層があることから、これまでにもぴあの歴史に迫った本は刊行されましたが、今回は矢内氏自身による自伝。『ぴあ』のストーリーを知ることができる貴重な一冊といえそうです。

この記事では、矢内氏の生い立ち、雑誌『ぴあ』創刊までの黎明期のエピソードを紹介します。

甘納豆を買ってくれた友人たちの笑顔がぴあの原点

同書は、福島県出身の矢内氏の幼少期の話から始まり、「文化と才覚」で頭角を表すエピソードが紹介されています。

印象的なのは、小学生時代に「友人たちに甘納豆を販売した」というもの。友人たちに自作の紙芝居を披露した際、母親が作った甘納豆を販売したところ大いにウケたとのこと。矢内氏は母からきつく叱られたそうですが、友人たちの笑顔を見てこんなふうに思ったそうです。

「母親には叱られたけれど、人に喜んでもらうことの素晴らしさを実感した。ぴあという事業を始め続けてきた私の原点には、あの幼かった友人たちの笑顔があったのかもしれない」

「仲間たちで共通の経済基盤をつくる」と学生起業

発明にハマった高校時代、大学入学後と話が続きますが、決定的だったのがTBSのバイト仲間たちとの出会いでした。そこにはさまざまな大学から30人ほどの学生が来ており、矢内氏と同じ境遇・趣味の学生が多くいました。後から思えば、これも運命の出会いだったと矢内氏は振り返ります。このときのバイト仲間こそ、のちに一緒にぴあを立ち上げる中心メンバーだったのです。

気が合うバイト仲間と「このままサラリーマンになるのはどうにもシャクだ」と共鳴し、「冗談の通じ合う仲間たちで共通の経済基盤をつくろう」というスローガンを掲げ、起業することにしました。

矢内氏は東京で映画を観に行く際、困っていることがありました。「あの監督の、この作品が観たい」と思っても、どの映画館で上映され、その上映が何時からで、料金がいくらなのかを伝える情報が当時はなかったのです。東京に不慣れだった矢内氏は映画館に行くのも一苦労です。矢内氏が育った福島では、山の形を見れば今いる居場所がたいたい想像できましたが、東京ではそういうわけにはいきません。

何度も迷子になるうち、東京は「矢印の街」であることに気づきます。駅の構内も路上も、黙って矢印に従って歩いていけば、ちゃんと目的地に到達できます。これは福島にはない便利な点でした。どの劇場でどんな映画を上映していてて、そこに行くためにはどう乗り継ぐのがベストかを知らせる「ガイド」のようなものがあったら…と考えた矢内氏は、ぴあの原型を形にしていくことにしました。

アパートのドアに掲げた『月刊ぴあ編集部』の看板

後の『ぴあ』の中心メンバーが、矢内氏の四畳半のアパートに集まるようになりました。作業をするにはあまりに狭すぎるため、バイトで稼いだ5万円で六畳+二畳のアパートに引っ越し、当時の学生にとっては贅沢品の黒電話を引きます。アパートのドアには堂々と『月刊ぴあ編集部』という看板を掲げます。

編集部を名乗りつつもも、創刊準備をしていただけで収入は相変わらず前述のバイトでのものでした。しかし、矢内氏とその仲間たちは、新しいものを生み出すために、議論したり作業したりすることが「理屈抜きに楽しかった」と振り返ります。矢内氏の父親が息子に「卒業旅行」として用意していたお金は『ぴあ』の印刷費に回りました。

創刊時の『ぴあ』の編集方針は、「いつ」「どこで」「誰が」「何を」という客観的な情報だけを載せ、作り手の主観を廃し正確な情報の網羅に徹しました。それまでの雑誌はどことなく権威的で、発信者側からの情報を、読者が受けとるという情報ヒエラルキーのようなところがありましたが、『ぴあ』は発信者・読者が、情報の双方向性を目指しました。今日のインターネットでは至極当然の情報の行き来ですが、当時としてはかなり珍しく、そして斬新でした。

肝心の取り扱い書店が見つからない…

1972年夏、『ぴあ』創刊号の原稿はすべて印刷所に入稿されました。印刷部数は1万部。しかし、矢内氏は大きな誤算に気づきます。出版物を扱う取次(流通問屋)に扱ってもらえず、「書店に直接置いてもらえばいい」と考えていたものの、書店を回っても取り扱いを断られてしまいます。

途方に暮れた矢内氏と仲間たち。偶然目にしたのが、『日本読書新聞』に掲載された当時の紀伊國屋書店の社長・田辺茂一氏の記事でした。田辺さんは有名書店が加盟する会の会長をしており、記事の中で「書店の利益をさらに引き上げなければ、日本の出版文化は滅びる」と語っていました。

矢内氏はこの記事を読み、意を強くしました。『ぴあ』は書店に直接配本する。書店が取次に支払うマージンも上乗せしてもらって構わない。そうなれば書店の利益も上がる。矢内氏はすぐに田辺氏を訪問しました。矢内氏の説を聞いた田辺氏は、どこかに電話をかけ「そっちに活きの良い若いのが行くからよろしくな」とある人を紹介します。その人は日キ販というキリスト系出版取次の中村義治氏でした。矢内氏はここでも自説を展開したものの、中村氏の反応は薄いものでした。

窮状を明かし、『ぴあ』のサンプルも見せたものの、「やめた方が良い」と中村氏。矢内氏の必死の訴えを黙って聞いていた中村氏は、置きたい書店のリストを提出するよう命じます。120〜130軒の大型書店をリストを中村氏のもとへ持参した翌日、あらためて中村氏を訪ねると、部屋には茶封筒の山がありました。

中村氏が用意してくれた各書店への手紙

茶封筒には「矢内廣くんを紹介します。取次店に断られたので、書店に直接彼らの雑誌を置いてほしいです。よろしく取り計らいをお願いしたい」という直筆の書面がありました。中村氏の実印も押され、封筒には書店の社長名が書かれています。中村氏は1日で100通以上も用意してくれたのでした。

紹介状の効果はてきめん。書店でも取り扱いが決まり、創刊号は89店舗に。後に、矢内氏はある業界の重鎮にこの話をすると「業界広しといえども、あの当時、そんな無理を通せたのは田辺さんと中村さんしかいない。そこにたどり着けたのは、奇跡だよ」と言われました。矢内氏は今も社長室に中村氏との写真を飾っています。

動かないはずの岩が何度も動いた『ぴあ』の50年

『ぴあ』は部数を伸ばし、やがて取次を動かすことになりました。雑誌『ぴあ』の誌面の情報をイベント化した『ぴあフィルムフェスティバル』を実施し、さらにはチケッティング事業『チケットぴあ』をスタートさせます。その詳細は本書にありますが、矢内氏は、ぴあの50年を振り返ると良い話ばかりではなく、失敗することも多々あったと綴っています。社内クーデター、システムトラブルやコロナ禍におけるイベント休止での経営危機といった窮地に追い込まれた話なども本書ではつづられています。

しかし、その「動かぬ岩」と対峙した際、いつも必ず仲間が現れ、その岩が動いてきたとも矢内氏は言います。

「不可能という名の大きな岩は、信念を持って一生懸命に押していると、一緒に押してくれる人がまず一人現れ、そのうち何人にもなり、皆んなで押してるうちに動き始め、一度ゴロンとすると、ゴロンゴロンと転がります。こうして、動かないはずの岩が何度も動いたのが、ぴあの50年でした。」(本文より)

 

ネットも携帯もない時代の貧乏学生が起業したストーリー

同書は当初、『ぴあ』の社員向けに作られたものだったそうです。刊行のエピソードを、ぴあ株式会社・取締役の小林覚さんに聞きました。

「本書は、ぴあ創業50周年を機に、創業から今までの経緯を、特にぴあ社を継承していく若い世代に伝えることを目的に創業者自らが書き下ろしたものです。

創業のきっかけから、その時その時に出会った方々や隠れたエピソード、あるいは失敗談や成功談を余すことなく赤裸々に綴ることで、ぴあという会社のありよう、大切にしてきた思いや理念を、活字の形で残すことにしました。

一般的に、会社の創業記念には分厚い『社史』が編纂されることが多いですが、ぴあ社ではそれを20分間のムービーにし、多くの人に気軽に見て頂ける形にしました。その一方で、特にお世話になった方々やお取引先に向けては、創業者自身の言葉で、その感謝の思いを伝えたいと考えて、自伝の発行を決めました。

当初は、次世代のぴあを担う社員に向けた『記録』として残すことを目的にしたものでした。しかし、起業家全盛の現代にあって、お金も人脈もノウハウも、もちろんインターネットも携帯電話もない時代に、田舎から出てきた貧乏学生が卒業前に『ぴあ』を起業していた、という事実は想像を絶する出来事だと思います。

成功を目指す若者や、それを支えるインキュベーターにとって、『起業』の本質を知り、そのノウハウやスキルとともに、『そのために必要な最も重要なこと』を学ぶためのバイブルになりうると考え、市販することを決めました。同時に、多くのビジネスパーソンにとっても、労働や経営の本来のありようを示唆する一冊になっていると思います。ぜひご一読いただければ幸いです」(小林さん)

ビジネス書として読める一方、チケットや雑誌などで『ぴあ』に触れてきた人にも興味深い一冊です。

 

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