ドラゴンボール・アニメ版の演出や監督を手掛けてきた上田芳裕(@yoshihiro_anima)さんが、テレビ放送が始まった1980年代の初期オープニング、エンディング原画をツイッターで公開しました。
世界中に熱狂的なファンがいるドラゴンボールも、アニメ放映が始まった当時は資料を保存する慣習がなく、歴史的価値を持つ原画やセル画、絵コンテが捨てられたり、売却されたりしていました。長年ドラゴンボールの制作に携わった上田さんは、当時打ち捨てられていた資料をなぜ取って置いたのでしょう。上田さんに聞きました。
流出しても気にも止めず
兵庫県出身の上田さんは関西学院大学を経て、東映に入社しました。アニメ「Dr.スランプ アラレちゃん」のラスト2話で初演出を務め、ドラゴンボールは1986年の第7話から演出として参加、1997年のドラゴンボールGT最終回まで絵コンテを担当しました。10年以上続いたドラゴンボールシリーズで最も多く演出を担い、「日本で最も『悟空』という漢字をたくさん書いたひとりです」と苦笑します。劇場版「ドラゴンボールZ 銀河ギリギリ!!ぶっちぎりの凄い奴」(1993年)、「ドラゴンボールZ 超戦士撃破!!勝つのはオレだ」(1994年)では監督を務めました。
上田さんは制作に携わったアニメ版・ドラゴンボールの初代オープニング「魔訶不思議アドベンチャー!」やエンディング「ロマンティックあげるよ」の貴重な原画を投稿し、「OP(オープニング)であろうとED(エンディング)であろうと、保存という考え方のなかった昔は、(行方)不明になってしまう運命だった原画です。行く末を見たことありません」「当時は全部捨ててました」とツイートしました。
アニメ史に残る絵コンテや原画、セル画が当時、処分されていた理由について、「40年前、この仕事に就いた時は(アニメ素材の)管理はかなりいい加減でした。作品が終われば誰も管理せず、流出しても気に止められもしませんでした。僕の入るもっと前の生素材が オークションに出たりしてるのはその時代(の素材)でしょう。それが決して犯罪でもなく仁義破りでもなかったです」
「なにしろ置いておく場所がなく、処分する材料だったからです。昔は制作スタジオがよく倒産して、金目の物は整理屋さんが入って、持って帰って売られました。
ちょっと特殊な構造の作画机などは、お金の代わりに他のスタジオが持っていったりしました。だから作画机は業界内を回ってました。そういう時、机の引き出しによく珍しい資料や原版が入ってました。僕もゴライオンのOPのセルや、宇宙戦艦ヤマトの企画書を見たことがあります。そんなだったから、昔の歴史的な資料は保存されてません」
歴史として残したかった
ーー投稿したドラゴンボールの原画は上田さんが描いたものですか。
「私は演出なので、原画を描く元の絵コンテを作成するのが仕事です。原画はアニメーターが描きます」
ーー原画は捨てられ、セル画は保存されていたのでしょうか。
「セル画も多分、会社には殆ど残ってません。今残ってるとすれば、全部個人の持ち物かと思います」
ーー当時、処分、売却されていた資料を、上田さんが保存した理由を教えてください。
「私が資料をまだ持っていた理由は二つあって、一つは当時演出になりたてで、制作も兼ねていたので、資料を保管する役目もあって、そうして保管していた資料をそのまま忘れてたこと。(これが功を奏して、相当保存状態がよいです)」
「もう一つは アニメーションそのものが好きだったので、歴史としても記録としても、残しておきたかったからです。
捨てられる運命だったものを当時の上司に許可してもらい、もらい受け、持ってました」
ーー今や歴史的価値のドラゴンボールの原画について、「売ってほしい」と言われたことはありませんか。
「海外の方からそういうお話はありますが、決して売却はいたしません」
◇ ◇
孫悟空が縦横無尽に飛び回るワクワク感あふれるオープニング、そしてブルマがセンチメンタルに雨模様を眺めるエンディングが脳裏によみがえる精密な原画に、「曲が聴こえてくる…」「貴重な資料」と感嘆の声が国内外から上がりました。
鉄腕アトムの漫画やアニメに魅了され、美術や映像の門外漢からアニメ制作現場に飛び込んだ上田さん。「色んな事にオールマイティに興味があったのとコミュニケーション能力で演出まで辿り着いたのが本当のことです。はっきりと時代と人に恵まれました」と話していました。