ノーベル文学賞のアニー・エルノー「シンプルな情熱」 担当編集者が語る、今読むべき理由とは?

山本 明 山本 明

 本年度ノーベル文学賞はフランスの作家アニー・エルノー氏が受賞しました。氏の著作、「シンプルな情熱」が現在、Amazonの売れ筋ランキング〈カテゴリ フランス文学〉でベストセラー1位を獲得するなど注目が高まっています。自身の体験をもとに「個人的な物語」を書き続けるエルノー氏の小説が先行き不透明な時代の今、なぜノーベル賞をとったのかを担当編集者に聞きました。

 アニー・エルノー氏(82歳)は1940年9月1日に北フランスのノルマンディー地方に生まれ、食料雑貨店兼カフェを営む両親に育てられた後、大学で教員資格を取得。教鞭をとりながら1974年に作家デビューを果たしました。91年には妻子ある外国人の男性との不倫関係を赤裸々に描く自伝的小説「シンプルな情熱」を上梓。衝撃的な内容に評論家からは賛否両論の声が上がり、大きな反響を呼ぶベストセラーとなりました。

 同氏の受賞にSNSでは祝辞と共に「誰と話しても話題になるし、アニー・エルノー、読まなきゃ…」「アニー・エルノーさんの作品が気になる。オートフィクション(自伝的なフィクション)って言葉を初めて知った」などとその著作へと関心を寄せる声が届いています。

 代表作「シンプルな情熱」を刊行する早川書房(東京・千代田区)の担当編集者・吉見世津さんに今、アニー・エルノー氏がノーベル文学賞を受賞した理由、その読むべき理由を話してもらいました。

「個人的な体験」の物語は読者に、今まで意識しなかった自身の内面の感情を客観的にとらえる気づきを与える

――村上春樹さんやマーガレット・アトウッドさん、リュドミラ・ウリツカヤさんなど、そうそうたる顔ぶれの受賞がネットでは予想されていました。その中でなぜ、アニー・エルノー氏がこのたびノーベル文学賞を受賞したと思いますか?

アニー・エルノーは以前からフランス語圏では人気作家として知られていましたが、「Les années(歳月)」の英訳が2019年にブッカー国際賞の最終候補になったことから、英語圏での人気に一気に火が付きました。また、数年前から必ずノーベル文学賞の発表前は受賞候補として名前があがっていたため、いつか受賞するのではないかと早川書房内でも期待がありました。

2022年6月に、アメリカ合衆国の最高裁で、1973年に認められた人工妊娠中絶の権利が破棄されたことや、女性の中絶の権利が危うくなってきている世界情勢の中で、エルノー自身の中絶体験が色濃く反映された「事件」がふたたび注目を集めたことなども少しは影響しているのかもしれません。

――著作の中で用いるという「オートフィクション」という手法について教えてください。

「オートフィクション」とは自伝的なフィクションのことです。エルノーの描くオートフィクションは、自身の体験を色濃く反映しているものの、自己憐憫的なところが全くなく、自分のことを描きながら、どこか突き放して客観性をもっている点が特徴的だと思います。

――緊迫と混迷が続く国際情勢に人々は関心を寄せています。その中で非常に個人的な物語が「ノーベル文学賞」をとったことにはどんな意味があるのでしょうか。

アニー・エルノーのように、家族や自分の人生、恋愛、受けた教育や従事した職業など、「個人的な体験」を書くということは、書いた本人だけの中にとどまるのではなく、読み手が今まで言語化できていなかった感情や思いを客観的に炙り出すという影響を、読者に与えていると思います。

文学が扱っているテーマは多岐にわたり、戦争や政治、国際情勢などを扱っている文学もあれば、エルノーのように、個人の身近な体験を自伝的な小説として著す作家もいます。扱っている題材の優劣の問題ではなく、今回のノーベル文学賞受賞は、自らの体験を一歩突き放したような冷静な筆致で描く、氏の作家としての稀有な力が評価された結果だと感じました。

――代表作「シンプルな情熱」の読みどころを教えてください。

「シンプルな情熱」は、アニー・エルノー自身が、年下の男性と恋愛関係にあった経験を反映して描いた作品で、発表された当時は評価が二分された作品です。この題材で描くと、情事に耽る女性を描いた陳腐な小説になりがちですが、どこか自分を外側から客観的に観察しているような新鮮な印象を受ける小説です。

人が性愛に溺れ、そして目を醒ましていく感覚がとても良くわかり、ロマンス小説的な題材を扱いながらも冷静な感覚で読めるところが一味違うと思いました。

   ◇   ◇

 また同社はアニー・エルノー著「嫉妬/事件」も10月26日に繰り上げて刊行予定。この中に収録されている「事件」は12月2日に公開予定の金獅子賞受賞仏映画「あのこと」の原作でもあり、望まぬ妊娠をしてしまった大学生の苦悩が描かれているとのこと。さらに元恋人への妄執を描く「嫉妬」も同時収録されています。今回の受賞でエルノー氏の著作に関心を持った人はぜひ手に取ってみてはいかがでしょうか。

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