鳥取県八頭町池田の中山展望台に「霊石 亀石」という、まるで本物のカメのような巨大な岩がある。特徴的な外見だけでなく、亀石には戦国時代から伝わる不思議な話もあるという。謎が多い巨岩について調べた。
展望台は県道293号沿いの丘の上にあり、駐車場からは合併前の旧郡家町内を一望できる。亀石は駐車場からあずまやに登る階段のそばに安置されている。
甲羅部分の巨大な岩を複数の石が支え、甲羅部分の先端は頭のようにとがっている。頭の部分の岩ははるか昔に割れたようで、岩の断面の模様がちょうどカメの口のように見える。見る角度によっては、カメが四肢で地面を踏みしめ、天を向いて雄たけびを上げているかのようだ。
近くにある立て看板によると、亀石は長さ4・8メートル、幅2・4メートル、高さ1・6メートル。重さは25トンという巨大さ。人よりも大きく、近くで見ると、巨大さと迫力に圧倒された。
亀石は現在地から300メートル離れた地点の雑木林に大昔からあったものを、地元住民でつくる土地開発の協議会が1986年に移した。理由は「血染の霊石」と呼ばれる石の由緒を伝承していくためだという。
非業の死遂げた武将たち
八頭町郷土歴史研究会の新(あたらし)誠会長(66)は「亀石には昔、戦に敗れて非業の死を遂げた武将や従者の霊が宿るといういわれがある」と話した。話は戦国時代、羽柴(豊臣)秀吉が因幡国(現在の鳥取県東部)に攻め入った時にさかのぼる。
1581年、秀吉は敵対する毛利の重臣、吉川経家が城主の鳥取城を攻撃した。秀吉がこの時行った徹底的な兵糧攻めは多数の餓死者を出し「鳥取の渇(かつ)え殺し」として知られる。
新会長によるとこの戦の際、鳥取城以外にも近隣の山城や寺が攻められた。山城や寺の武将と僧侶が、現在の展望台がある中山一帯にこもって防戦したものの、秀吉軍が密林に火を放ち、寺も人々も焼けてしまった。武将たちはなんとか亀石の前まで逃げてきたが、その場で力尽きたという説が残っているという。
新会長は「昔は山に寺がたくさんあり、戦になると僧侶が戦うことも珍しくなかった。兵や僧侶を含め戦で多くの犠牲が出たと推測できる」とする。
亀石を持ち帰ると…
亀石に関する話はこれだけではない。亀石の一部を持ち帰ったりすると、良くないことが起こるとして地元では有名だという。
新会長も地域のお年寄りたちから、亀石のいわれを知らず家に持ち帰った人の身に病気や災難が降りかかったという話を複数聞いた。いわくについて具体的な内容は聞けず、記録された資料も確認されていない。新会長は「あまり良い話ではないので町史や資料に残しにくかったのでは」と話した。
あらためて亀石を見ると、カメの表情は苦悶(くもん)しているようにも怒っているようにも見え、何か不思議な力が宿っていてもおかしくないように感じる。立て看板には祈願を込めて現在地に移転したことが書かれ、毎年7月には法要が執り行われるという。「霊石」と呼ばれるだけあり、地域にとって、普通のカメの形の岩ではないことが分かる。
新会長は「郷土を守るために犠牲になった人たちがいる。その事実と志を、亀石を通して多くの人に知ってもらいたい」と願った。