天井に「幽霊の足跡」で有名な寺院、“謎の手形”も複数出現!…うわさの真偽を住職に尋ねると?

山陰中央新報社 山陰中央新報社

 夏は背筋がぞっとして涼を感じられる怪談の季節。松江市北田町にある寺院、普門院の門の天井部分には人の手足のよう形の染みがあり、古くから地元では「幽霊の足跡」と呼ばれている。染みについて寺ではどのような言い伝えが残っているのか、足跡の真相に迫った。

 普門院は松江城の東にあり、堀川遊覧船が寺の前の堀川を通る。約400年前、松江藩初代藩主の堀尾吉晴(1543~1611年)が松江城を築き、城下町を造成した際に祈願所として現在の松江市西川津町に建てられた。火災などを経て1689年、松平松江藩3代藩主の松平綱近が城の鬼門にあたる現在地に再建したと伝わる。本尊には悪魔や煩悩を降伏させる大聖不動明王をまつる。

高さ3.5メートルの位置に子どもの手形が…

 人の手足のような染みがあるのは寺院の入り口にある高さ約3・5メートルの山門。門をくぐって天井を見上げると、確かに10センチほどの人の足の指のような染みが一つと、20センチほどの小さな手形のような染みが三つ見えた。手形は子どものもののように小さく見える。子どもがつけるには高い位置にあり、足跡をつけるのは不可能に思える。想像よりもくっきり残っていて、見た瞬間、鳥肌が立った。

 住職の谷村常順さんによると、足跡がいつからあるのかは定かではないが、谷村さんが子どもだった1970年頃には既にあったという。谷村さんは「昔は(足跡が)三つ、四つはあったが今は消えてしまった」と話した。

 手形について、谷村さんは「手形は私が子どもの頃にはなかったと思う」と首をかしげた。谷村さんの亡くなった祖母によると約30年前、テレビの撮影隊が怪談特集で足跡を取り上げようと夜中に寺院を訪れたことがあった。現場からタレントが生中継をする内容だったが、撮影後しばらくして、いつの間にか門に手形があることに気付いたという。

 足跡よりも後に現れたという手形の染みは、夜中の騒がしさにおびき寄せられた別の幽霊が付けたものなのだろうか…。

昔は明かり一つない場所

 染みが「幽霊の足跡」と呼ばれるようになった経緯について、谷村さんは「寺院に明確な言い伝えがあるわけではない。昔から普門院は不気味な場所として知られるため、人々の間で染みが幽霊のものとして広まったのではないか」と推測した。

 谷村さんによると、普門院周辺には大正時代初期になっても街灯が一つもなく、夜になると真っ暗だった。昔は境内に背の高いマツがいくつも生え、寺の裏は沼地という、うっそうとした雰囲気で「昔の人が夜中にこの寺の前を通るのはとても怖かったらしい」と教えてくれた。

 どうやら、当時の人々が寺の雰囲気に合わせて話したうわさが、そのまま現代まで語り継がれているようだ。谷村さんは「正直に言うと、足跡は建立の際に大工が付けたんじゃないかと思っている。当時の木造の建物にはどこか一つぐらい大工の手や足の跡があるし…」と苦笑いした。ただ、比較的最近現れた手形については謎だという。

足跡以外の恐ろしい怪談も

 実は普門院には足跡とは別に有名な怪談がある。

 普門院には「観月庵(あん)」という茶室があり、怪談で知られる文豪の小泉八雲が訪れたとされる。八雲は普門院の独特な雰囲気に感化されて怪談を創作するようになったという説もあり、かつて寺院の近くにあった「小豆とぎ橋」にまつわる怪談を残している。

 大昔、橋には夜な夜な女の幽霊が現れるという言い伝えがあった。橋で謡曲の「杜若(かきつばた)」を歌うと恐ろしいことが起こるため、決して歌ってはならないとされていた。しかし、ある日、幽霊を信じない侍が大声で歌いながら橋を通る。家に帰ると、門に美しい女性が立っており、侍に箱を差し出して「主からの贈り物です」と告げて姿を消した。侍が箱を開けると、中には家にいるはずの幼い我が子の生首が入っていた…というもの。

 八雲が創作したとあって身震いするような恐ろしい話だ。足跡と並んで普門院を代表する話で、昔の寺は多くの人に恐怖心を抱かせる場所だったのだろう。

   ◇   ◇

 谷村さんは「足跡を見てどう思うかは人それぞれなので、興味がある人はぜひ各自で見に来て、想像を膨らませてみてほしい」と呼びかけた。普門院は現在、周囲に建物が多くあり、恐ろしい幽霊が現れる小豆とぎ橋もないが、謎の手形という不思議な現象が起こった。この夏に訪れ、独特の雰囲気から伝わってくる涼を感じてみてはどうだろうか。

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