「ルッキズム」を巡る議論、多くの人に認識されるようになることに大きな意味

北御門 孝 北御門 孝

「ルッキズム」について取り上げたい。ルッキズムとは、元々は「外見に基づく差別または偏見」のことをさし、学術的には主に職場における雇用の機会均等に対しての重要な問題として注目を集めている。しかしながら、一般的には「外見至上主義」や「外見を重視する価値観」といった少し違った意味合いで使われており、極端な場合、「人を外見で判断してはいけない」というような単純化された意味で使われることも見受けられるが、そのこと自体を否定するつもりはない。言葉は生き物のようなものであり、その使い方について間違っているとか指摘したところで意味のないことだ。学術研究のほうがそのことを課題として分析してみなければならないと思う。

ここではまず、元来のルッキズムという概念によって何を問題にしているかについて下記三つの分類を示しておく。

(1)本来は外見が評価されるべきでない場面で外見という要素が問われている「イレレヴァント論」

(2)社会的に評価される外見の美しさが社会的カテゴリーによって不均衡に配分されている「美の不均衡論」

(3)労働市場において評価される外見が美的労働を通じて組織的に構築されるなかで差別が生じる「美的労働論」

それに対し、一般的にはルッキズムという言葉は一見ポジティブなジャッジに対するものに違和感を表明するときにも使われており(俳優・水原希子氏のSNSへの投稿は後続の議論に大きな影響を与えた)、「マイクロアグレッション」の概念に当てはめてみると気づきがある。マイクロアグレッションとは文字通り些細な攻撃であり、そのことだけを取ってみてもその重要性はわからないが、受け取る側にとってはその文脈からの解釈が歴史観や世界観にまで及ぶこともある。攻撃する側にとってみれば、無自覚・無意識の場合もあるだろうし、受け取る側にはそれを敢えて取り上げることは繊細すぎるのだろうかとか、感情的になり過ぎだろうかとかの躊躇する気持ちが生じる。

しかしストレスを感じているのは間違いないのだから、仮に勇気を出して指摘したとして、攻撃する側は「そういうつもりではなかった」「差別するとか悪気はなかった」といって、受け取る側の感受性、考え方、さらには脆弱性によってダメージ化してしまったことに対し謝罪するとの対応がなされる。もちろん、ケースバイケースであってどちら側にも過剰であった可能性は残るだろう。価値観は十人十色だ。共感を得ることの困難な部分も当然にある。

しかしながら、たとえばルッキズムに包摂される様々な一見些細に思われるような問題について、多くの人に認識されるようになることには大きな意味があると思う。誰であれ、攻撃する側にも受け取る側にもなり得るのである。

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 「ルッキズム」概念の検討―外見にもとづく差別― 西倉実季氏
「現代思想」2021vol.49-13ルッキズムを考える(青土社)

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