明治三(1870)年、旧暦の1月27日は、太政官布告によって商船の国の旗印として、現在の日本の国旗である「日の丸」を明示した日として、「国旗制定記念日」となっています。ただこの日を国旗制定の日とするのは記念日にありがちの制定者不明という問題や制定日としての異論もあります。とはいえ、1999年に正式に日本の国旗となった日の丸について考えてみるよい機会ではあります。またそのデザインにこめられた実は深い意味について解説していきましょう。
日章旗の「太陽」はなぜ赤いのでしょうか。朝日説が有力ですが…
最古の日章旗?武田家ゆかりの「御旗」から見えてくる日の丸信仰
1980年代の大河ドラマ「武田信玄」で、武田信玄と家臣団が、決死の出陣に際して大広間の祭壇に向かい、全員で「みはたたてなし、ごしょうらんあれ」と唱和して必勝を祈願するシーンが数回登場しましたが、説明的な叙述も一切なかったため、当時筆者は「いったい何のこと?」と首をひねりました。
「みはたたてなし」とは「御旗・盾無」で、甲斐武田氏の祖とされる清和源氏の新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)以来伝承される家宝で、「盾無」は平安時代以来源家に伝わる八領の鎧兜のうち、唯一戦国期まで継承されてきた盾を必要としない最強の鎧「盾無」、「御旗」は平安時代後期の前九年の役の折、後冷泉天皇から義光の父・源頼義に下賜され、以降嫡子となった三男の義光に相伝された旗印のことです。
そしてこの「御旗」こそ、「日の丸」の原型とされるもので、白い絹地いっぱいに赤い円が染め抜かれています。軍議の折、議論が伯仲して結論が出ないとき、惣領が「御旗、盾無もご照覧あれ」と宣言すると、議論は全て打ち切りとなり、惣領の決断に従うという決まりでした。
「御旗」は「日の丸御旗」とも呼ばれ、「最古の日章旗」として、現在は山梨県甲州市塩山の霊峰寺に、寺宝として保存展示されています。天正十(1582)年、天目山の戦いに敗れて武田勝頼が自刃、武田家が滅亡した際、日の丸御旗は、あの有名な「風林火山」の幟(のぼり・孫子の旗)、諏訪神号旗などとともに、密かに霊峰寺に運び込まれ、武田家再興の日を期して託されたと伝わっています。「御旗」自体は、室町期の製作であるという説もありますが、大事なのは武田家がその旗を最重要の宝物として扱っていたこと、日章旗がその時代にすでに価値があったという事実です。
奈良県五條市、南北朝時代に南朝が置かれた吉野地域には、後醍醐天皇から下賜されたと伝わる日章旗も保存されていて、もしその由縁が正しいのなら、源家の棟梁・足利尊氏と対立した後醍醐天皇であっても、白地に赤円の幟旗は価値のある意匠として認識されていたことをうかがわせます。
こうして日の丸は、豊臣秀吉時代から徳川時代初期の朱印船貿易でも、また鎖国後の公用旗としても使用され、日本国中で見慣れたシンボルとなっていきました。
江戸末期の嘉永六(1853)年に、島津藩の島津斉彬が幕府に日本船の総印として、日の丸の採用を進言。翌年幕府がこれを採用して、以降対外用の正式な日本国の旗印となりました。
甲斐武田家の祖・新羅三郎義光が元服した新羅善神堂。三井寺の鎮守です
日の丸の太陽はなぜ赤い?デザインの謎
それにしても、なぜ日章旗、あるいはそこから光条を全方向に走らせた旭日旗に描かれる太陽は「赤」なのでしょうか。太陽を赤であらわす例は世界的にも珍しく、日本の他、わずかにタイなどにある程度だと言われます。日本の子供たちの絵を見ても太陽の色はたいてい赤です。これを「国旗の影響」という声もありますが、それよりは天気予報のマークなどで太陽を赤くあらわすことが多いからかもしれません。つまり日本文化の中には、太陽=赤というシンボリックイメージが強固に出来上がっているのでしょう。歌謡曲にも美空ひばりに「真赤な太陽」という歌がありますね。
太陽は、地平線際にある日の出や日の入りには赤に近い色に見えます(実際にはオレンジ~桃色ですが)。聖徳太子が隋の煬帝に送ったとされる国書の「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや」という有名な一文から、施政者が日本のアイデンティティを「日が昇る国」ととらえ、それが後に朝日の赤い色を旗印としたと考えることは不自然ではありません。
だとしてもなぜ、日本人は「朝日」をわざわざ選んでデザインしたのでしょうか。日が早く上る場所が偉いというわけではありませんし、朝日だろうが南中の太陽だろうが夕日だろうが太陽は太陽で不変です。むしろ、昼間の高度の高い太陽こそが力強い光を降り注ぐので価値が高いような気もします。
シンプルなデザインの日本の国旗。そこには深い意味が?
修験道から見えてくる童子神・御子神信仰
武田家家宝の日の丸御旗で言及した新羅三郎義光こと源義光の「新羅(しんら)」とは、義光が元服の儀式を受けた近江国(滋賀県)の三井寺こと園城寺の祭神・新羅明神に由来します。言うまでもなく、「新羅」は朝鮮半島の新羅国とのゆかりのあるものです。
古代から上代にかけて、日本には百済や新羅、高麗など朝鮮半島からの亡命者が何度も渡来し、中には任那地域の邑の王子だけではなく、新羅や百済の王子も逃れてきています。日本の山岳信仰、修験道は古代朝鮮半島の動乱期、たびたび亡命してきた百済や新羅の王子たちがもたらした巫術、宗教の影響のもと、空海らが唐からもたらした真言系密教、日本古来の古神道と習合して成立したと考えられています。
そして東国武士は、修験道や山岳信仰を取り入れて篤く信仰することで、独特の生死観を獲得していき、その典型的な例が、長野県の諏訪神社だったのでしょう。
山岳信仰の神は多くの場合王子神(童子神・御子神)のかたちをとり、たとえば熊野信仰の九十九王子や、祇園祭の「八王子」(スサノオから生じた五王子とアマテラスから生じた三姫)にもみられるものです。
八幡神社の本宮で、日本で最も多くの巫術による神の預言をなし、朝廷からの信頼が篤かったとされる宇佐神宮の『八幡宇佐宮御託宣集』によれば、宇佐神宮の主神八幡神(応神天皇)は、幾度となく三歳、七歳などの童子の姿をとって顕現します。
中世の千葉氏などに信仰された北斗七星信仰、いわゆる妙現菩薩信仰でも、千葉氏の祖・平将門の絶体絶命のピンチに、妙現菩薩が童子の姿で現れて危機を救った逸話が『将門記』において語られています。
では、山岳信仰はなぜこのような御子神を信仰していたのでしょうか。世界中で有名な御子神の神話と言って思い浮かぶのは、イエス生誕の物語です。はるか西方から、この物語はアジアに伝わっていたのでしょう。なぜなら聖徳太子も、「厩戸皇子(うまやどのみこ)」(厩の中で生まれた神の子)なのですから。
そしてさらにその起源を探れば、処女神コレーと御子神アイオーンへ。さらにさかのぼれば不死鳥ベンヌが火の中で死に、しかしその火の中で生んだ卵から復活する、太陽の日の入りと日の出を象徴する神話へとつながります。
童女のような飛鳥寺の聖徳太子像。聖徳太子は童子の姿の像や絵が多いのです
若一王子の正体は…日の丸の中にこめられた意味
煬帝に国書を送った聖徳太子、その生前の名は厩戸皇子(うまやどのみこ)。かつて一万円札に使用されたひげをたくわえた青年像も有名ですが、しばしば聖徳太子は童子の姿で描かれ、また像を彫られました。現代でも引き継がれる職人集団の念仏講「太子講」でも、聖徳太子の少年像や、幼児像が掲げられてあがめられることが多いのです。太子とはそもそも、皇太子、王子様のことです。愛宕権現や白山権現の姿もまた、多くの場合童子(少年や少女)の姿で形作られます。
新羅三郎義光が元服した天台寺門宗総本山の園城寺(三井寺)は、天台宗の総本山・比叡山延暦寺に長年厳しい弾圧を受け続けてきました。弥勒菩薩を祀るために建立された園城寺ですが、その名をいただいた新羅明神の本地仏は、弥勒菩薩です。弥勒とは、未来からやって来るまだ生まれていない仏であり、その姿はほっそりとした少年のような姿で彫られることが多いのです。
そして、「赤」であらわされる日本語独特のある言葉があります。新生児、生まれてまもない小さな子供を、日本語では「赤ん坊」「赤ちゃん」「赤子」というのです。生まれたての新生児は皮膚が薄く、また分娩時に胎盤の血液が新生児の体内に圧縮して送り込まれるために、生まれたてはことに全身が赤く見えます。
赤く見えるから「赤ん坊」なのだ、という説明がありますが、世界中人種による皮膚の濃淡はあるとはいえ、新生児を「赤ん坊」と呼ぶ言語は日本語以外で聞いたことがありません。同じ東アジアの朝鮮半島や中国でも、赤ちゃんを赤ではあらわしません。日本人は古来、新生児の存在そのものに、昇る朝日そのものをイメージしていたのではないでしょうか。
熊野神社摂社の九十九王子の第一位となる若一王子は本地仏(神の姿を取った本来の仏の姿)が十一面観音菩薩で、十一面観音の垂迹神は、あの天照大神です。太陽神であるアマテラスもまた、修験道において童子(童女)として認識されてきたのでした。
となるとやはり、朝日をあらわすとされる日の丸の赤い丸は、太陽であると同時に生誕したての新しい命、赤ん坊をあらわしたものだったのではないでしょうか。そしてその魂の無垢のシンボルが、周囲を包む純白であらわされたものだったのかもしれません。
(参考・参照)
八幡宇佐宮御託宣集 重松明久 現代思潮新社
旗幟鮮明、南朝の夢 吉野の堀家に伝わる日章旗(時の回廊) 日本経済新聞
三井寺(園城寺)
若一王子神社。熊野から全国に、王子信仰は広まっています