大みそかの風物詩といえば、NHKの紅白歌合戦、そして除夜の鐘が思い浮かびます。除夜の鐘といえば「来る新年に思いをはせながら鐘の音に耳を傾けてきた伝統行事」というイメージを持ちます。しかし、多くの日本人が除夜の鐘に特別な感慨を持つようになったのはこの100年ほどではないか、という分析が最近登場しています。専門家に聞きながら除夜の鐘の歴史を振り返ってみます。
そもそも除夜の鐘はいつから始まったのでしょう。江戸時代の俳句や俳人に詳しい故・暉峻康隆さん(てるおかやすたか、1908~2001年)の著書「暉峻康隆の季語辞典」(2002年、東京堂出版)に気になる記述がありました。
本の中では江戸時代中期、宝暦年間(1751~64年)の川柳として「百八のかね算用や寝られぬ夜」を紹介しています。暉峻さんはこの句を「除夜の鐘の句の初見」と記載しています。
江戸時代の時の鐘に関する著作がある浦井祥子さんは「江戸の除夜の鐘について」という文章で、先ほどの川柳より少し後の時代の本「松屋筆記」に「除夜ノ鐘ハ、元旦ノ鐘」と記されていると紹介しています(「江戸町人の研究 第六巻」2006年、吉川弘文館)。
ということは「除夜の鐘」という呼び方は江戸時代中期までさかのぼれそうです。
では「除夜の鐘」は江戸時代の庶民に根付いていたのでしょうか。どうも江戸時代、そして明治時代になってもそれほど根付いていなかったようです。暉峻さんは「暉峻康隆の季語辞典」で、昭和2(1927)年の俳句の辞典では除夜の鐘の解説や例句がなかったことから、「まだ十分に市民権を得ていなかったようである」と記述。「除夜鐘」や「百八鐘」が季語として定着したのは昭和8、9年(1933、34年)からとしています。
では、昭和初期に何があったのでしょうか。「鉄道が変えた社寺参詣」(交通新聞社新書)という本で除夜の鐘について分析した神奈川大の平山昇准教授(日本近現代史)は「ラジオの影響が大きかった」と話します。
ラジオ放送は大正14(1925)年、東京と大阪、名古屋で放送が始まりました。平山准教授によると最初の除夜の鐘の放送は昭和3(1928)年元日午前0時でした。このとき、スタジオのベルを鳴らし「除夜の鐘」として放送したといいます。
約1年後、昭和3(1928)年の大みそかにはスタジオに本物の鐘楼を設け、鐘を打ちました。この年12月31日付の京都日日新聞(京都新聞の前身のひとつ)には、確かに名古屋放送局の欄に「十一時五十分」「除夜の鐘」の文字があります。
昭和4(1929)年12月31日には除夜の鐘が全国放送となりました。この日付の京都日出新聞(京都新聞のもうひとつの前身)のラジオ欄には午後11時50分から午前1時まで、「除夜の状況(浅草観音堂境内より中継)」や「除夜の鐘」という文字があります。浅草寺(東京都台東区)から中継放送が行われたようです。
昭和7(1932)年の大みそかには東京、大阪、仙台、名古屋、広島、熊本さらには日本統治下にあったソウルからの中継が行われています。このころから当時の京都日日新聞と京都日出新聞はラジオ放送される除夜の鐘を比較的大きく紹介しています。やはり季語として除夜の鐘として定着する時期と合致していそうです。
ちなみにこの時期、ラジオはどれほど普及していたのでしょうか。ラジオの聴取許可数は大正14(1925)~昭和9(1934)年度の10年間に7.5倍に急増しています(昭和10年度日本放送協会「業務統計要覧」)。家庭にラジオが浸透するとともに、多くの人が除夜の鐘に耳を澄ます習慣が定着していったようです。
平山准教授は「かつて、大みそかは1年の借金を返さなくてはいけない日でした。ラジオから流れる除夜の鐘に耳を傾ける余裕ができたのは、月給で生計を立てるサラリーマンが増えた戦前期ではないでしょうか。除夜の鐘が年の瀬になくてはならない風物詩となったのは、それほど歴史があるわけではないようです」と見ています。