仕事を持ち、愛する人と結婚して、宝物のような我が子を授かる…。端から見れば「幸せの絶頂」とも見えそうな瞬間に、心を病み、仕事を失ってしまったら?それが、ぼくです。奥さんの妊娠が分かった直後にパワハラでうつ病を発症し、仕事を退職したぼくは、病気を抱え無職のまま「父」になりました。主夫をしながら、何とか家計の役に立ちたいと始めたフリーランスの仕事。最初は順調かに見えた生活を、コロナ禍が襲ったのです。(全5回の4回目)
「自分にできることがある」が支えに
ぼくの仕事の柱は「WEBライティング」でした。最初のころはコンスタントに仕事が受注できていたおかげで、毎日を忙しく過ごしました。うつ病のことを忘れられた時期もありました。「お金を安定して稼げている」「毎日がそれなりに忙しい」「人とあまり関わらなくて良い」ということが、メンタルを回復させてくれたのです。
また、ブログやYouTube、Twitterなどでの発信も始めたのもこの頃です。うつ病になっても自分にできることがある…少しだけですが、自信を取り戻していきました。
うつ病の人にとって、何かやることがあるというのは救われるものなのです。うつ病患者の思考はネガティブそのもの。何もやることがない暇な時間を過ごしていると、どうしても悪いことばかり考えてしまいます。ただ生きているだけで罪悪感を感じる…そんな状態が続くのです。仕事があるおかげで、罪悪感を少しだけ緩和させられました。
ぬぐえぬ「主夫」への引け目、収入面での不安も
しかし、やはり悩みは尽きませんでした。
まず、子どもの送り迎えをパパであるぼくが行うことに、少し恥ずかしさと後ろめたさを感じていたのです。今思えば恥ずかしがる必要はないのですが、自分の仕事や生き方に誇りを持てておらず、自信がなかったことが恥ずかしさの原因です。特殊な働き方で、さらにうつ病患者の持つ特有の自己嫌悪のせいで、送り迎えを行うことが苦痛でした。
また、フリーランスであるということを友達に気軽に話できませんでした。その理由は、自慢できる働き方じゃなかったからです。当時フリーランスといえば「かっこいい」というイメージを持たれることが多かった時代でした。しかし、ぼくの場合は逃げるようにフリーランスの道に入ったので、決して「これで独立するぞ!」と意気込んでいたわけではありません。そういった意味で、自分の仕事に胸を張れずに、友達にも自分の仕事のことをあまり話せませんでした。
そして何より、不安定な収入に毎月怯えていました。安定してある程度稼げていましたが、来月の給料は保証されていません。社会人になって初めて、金銭的に大きな不安を抱えることになりました。ましてや生まれたばかりの子どもがいるのです。不安を消すためには、とにかくがむしゃらに働くしかありませんでした。
この程度の悩みを抱えるのは、働いていれば当然のことなのかもしれません。みなさん、多かれ少なかれ悩みを抱えながら生きています。そのことを理解していたので、少しの悩みは我慢しながら働けていました。それからサラリーマン時代に比べると遥かにマシだったので「この調子で生きていこう」と考えていました。
コロナで仕事が激減、再び「マイナス思考の渦」に
そんな夢を打ち砕いたのが、新型コロナウイルスの流行でした。ぼくの働き方は一変しました。案件がみるみる打ち切られ、仕事が劇的に減っていきました。一方、奥さんは在宅勤務に。バリバリ働く姿を横目に、ぼくはお金が稼げず焦り、実力不足だと自分を責め、自分の境遇の情けなさを恥じ、ますます将来が見えなくなり…まさかの展開に頭が追いつかず、マイナス思考が雪だるま式に膨らんでいきました。
うつ病でなければ、少し寝たり気分転換をしたりすれば吹っ切れるのかもしれません。でも、強度のストレスで治ったかに見えた病気は容易に再発し、WEBライターの仕事も全く手につかなくなりました。わずかに残っていた仕事にすら向き合うことができず、引きこもりの無職に逆戻りしてしまったのです。この時は、人生で最も最悪の時期だったと記憶しています。どうにかして生きていかないといけない、子どもを育てないといけない、でも消えてしまいたい。そんな毎日を繰り返して、すさんだ日々を送っていました。
こんな自分でも、なんとか生きる方法はないのか。もう働くことはできないのか。好きな物は買えないのか。子どもにおもちゃを買ってあげることはできないのか。
フリーランスの怖さも知ってしまい、なんとか一般の就職をしたい。でも病気の特性があって、以前と同じような働き方はもうできないかもしれない。実際に、就職しようと履歴書を郵送した段階でブランクを懸念され、何度も落ちていました。
不安がのしかかる中、ぼくが出した一つの答えが「障害者になる」という選択でした。障害者として、障害に配慮してもらいながら働くことができれば、きっとうまくいく…。追い詰められたぼくにとって「障害者雇用」は、残された最後の希望のように思えたのです。