「こう見ると完全に阪急だ」と鉄道ファンのくれすと(@KimWipes115)さんが投稿した、高松琴平電気鉄道(ことでん)の路線図をさかさまにした画像が話題です。ラインカラーこそ違いますが、なるほど、3つの路線の伸び具合や起点から3駅目で分岐している点が阪急電鉄とそっくり。奇しくも、ことでんの前身である琴平電鉄が開業した頃の別名が「讃岐の阪急」。歴史は後世のこの話題を暗示していた?
昭和18年に鉄道会社3社の事業統合によって新たに設立されたことでん。琴平線(琴平電鉄が大正13年設立)、長尾線(高松電気軌道が明治42年設立)、志度線(讃岐電鉄が明治43年設立)の3線があります。
さかさまにしたことでんの路線図と阪急のそれを比べると、阪急伊丹線、嵐山線、今津線、甲陽線、千里線、箕面線はさておき、金刀比羅宮へのアクセスとなる琴平線は大阪と古都を結ぶ京都線、長尾線は宝塚線、一部が海沿いを走る志度線は神戸線といえそうです。そうなると、起点となることでんの高松築港は大阪梅田、分岐する瓦町は十三でしょうか。多少ずれるものの、高松空港と伊丹空港の位置関係も似てなくもありません。
ことでんレトロツアーに参加中だったくれすとさんがガイドさんから、かつて「讃岐の阪急」と呼ばれた経緯を聞いた際に「路線図を逆にしたら…」とひらめいたそうです。「梅田や十三の要素があること、3線がちょうど京都・宝塚・神戸の方角のように広がっていること、琴平線が規格的に一番良いところが京都線の境遇と似ていることがポイントだと思います」と話します。「讃岐の阪急」という異名は以前も耳にしたことがあるといい、「今回引退する車両が当時最新鋭の技術、装備で製造されたという経緯から阪急に例えられたそうです。製造当時、あまりに立派だったことから乗客が靴を脱いで乗ったという逸話に時代を感じました」と語ります。
さらに、讃岐の奥座敷と呼ばれる高松市の塩江地区には戦前、「四国の宝塚」が存在しました。塩江温泉鉄道が敷かれ、終点の塩江には温泉がありました。ことでんはそこで演芸場付の温泉旅館の経営や、少女歌劇団を養成に力を入れたのです。1914年に宝塚歌劇を創設し、阪急電鉄の発展に貢献した稀代の実業家小林一三(いちぞう)のビジネスモデルをお手本にしたのでしょうか。
ことでんの広報担当に聞きました。
―「讃岐の阪急」の呼び名は社内でも知られているのですか
「戦前の開業当初の異名のようです。現在若い社員はほとんど知らないかもしれません」
―社史にはどのように書かれていますか
「社史によりますと、『琴電琴平線の前身会社「琴平電鉄」は大正15年に栗林公園~滝宮間が開業し、駅舎の建築については当時の大西寅之介社長自らが近畿地方に出向き、阪急、南海、阪神と見て回り、栗林公園駅は南海の羽衣駅、挿頭丘駅は阪急の仁川駅をヒントにした。』などの記述があります。また、『鉄道設備(標準軌・鉄製電柱・電車線直流1500v)についても阪急電鉄をモデルにし、一部株主からは反対があったほど地方電鉄にしてはぜいたくであった。』とも記載されています」
―国鉄に劣らない路線を目指す進取の気風が伝わってきます
「明治末期から大正時代にかけて、地方での鉄道網の整備開業は期待される機運がある反面、大変な苦労があったのではないでしょうか。戦争や不況など激動の時代のなかで阪急電鉄様の先駆的な需要創出の経営モデルに倣って沿線の住宅開発や遊園地、温泉、演芸場を手掛けた歴史と先人達のチャレンジ精神は、現代の我々も忘れてはならないと感じます」
ことでんの魅力について、くれすとさんは「地方私鉄にもかかわらず3路線の規模を持ち、JRと競争&共存(今回のツアーはJR四国の企画でした)をしながら地域に根ざした鉄道を目指していること。またキャラクターのことちゃんが運営する公式ツイッターは独特のセンスがあります」と語ります。
ことでんと阪急の数奇な縁。歴史をひもとく旅もまた味がありますね。