怪しい、奇しい、妖しい、アヤシい。
「あやしい」の字には数々あれど、ザワザワくる「あやしい」はやっぱり「オンナへん」ですよね? 妖美、異世界、狂気。画家も大衆も、いつだってフツーじゃないものを描きたい、観たい欲望に憑かれてきた。日本の絵画史上、その欲望がドッと燃え盛ったのが、幕末から明治、大正、昭和の初め。そして、画家たちの「妖しい」イメージを一身に託されたのはオンナたちだった。妖美で時に残酷、グロテスクなヒロインたちが、「大阪歴史博物館」(大阪市中央区)で8月15日まで開催中の『あやしい絵展』に勢揃い。日本の近代の美術史を彩った、ホラー級の美女たちに会いに行こう。
入り口で迎えてくれるのが、美女、といっても超リアルな人形『白滝姫』。口元には歯と舌がのぞき、いまにも喋り出しそうで薄気味悪い。こうした人間そっくりの等身大の人形は「生人形(いきにんぎょう)」と呼ばれ、幕末から明治時代の見世物で人気だった。
今も昔も、人の心を妖しくそそるのが陰惨な流血シーン。江戸時代に人気だったのが、処刑や殺人現場を芝居の一場面のようにドラマチックに描いた「血みどろ絵」。これが幕末から明治にかけて、大衆ジャーナリズムへと形を変えてゆく。明治時代の『東京日々新聞』が伝える血みどろ事件の現場には、股間丸出し男の眉間を一撃してドヤ顔の女が。女が凶行に至ったいきさつは?芝居よりも妖しいのは、生身の女の心の闇だ。
さて、西洋美術史上で、耽美、退廃の「妖しい」イメージに執着したのが、イギリス19世紀後半のラファエル前派の画家たち。ロセッティらが好んで描いたファム・ファタル=男を破滅に追いやる“宿命の女“のイメージは、日本の画家たちにも強い影響を与えた。藤島武二の『夢想』は、ラファエル前派を代表するバーン・ジョーンズの『オフィーリア』を思わせる忘我の表情。時は世紀末。大正時代には日本にも妖しい美術の豊作期が到来する。
こんなファム・ファタルに捕まったら、男にはもう逃げ道はない。そう思わせるのが、北野恒富『道行』の女。恍惚の表情が官能的なのは、女の心がもうこの世にないからなのかもしれない。心中へ向かいながら、男は逃げ道を探るような目つきだが、「覚悟しいや」である。ちなみにこの名作、昭和のキャバレー王、福富太郎のコレクション。さすが、女の美を奥の奥まで知り抜いた目利きだ。
魔性パワーで男たちを返り討ちにするダークヒロインたちも、妖しく美しい。『道成寺』の清姫は、再会の約束を破った男を、蛇に変身して鐘に閉じ込めて焼き殺し、長編小説『白縫譚』の若菜姫は、蜘蛛の妖術を使って父の仇をうつ。闘う彼女たちのコスチュームにも注目。木村斯光『清姫』の胸元に見えるのは、鬼女や蛇の化身が身につける「ウロコ文」。橘小夢『若菜姫』の着物は、蝶々を生け捕りにする蜘蛛の巣の柄だ。
日本美術史上、屈指の「妖しい」といえば、「デロリ」である。画家の岸田劉生が、甲斐庄楠音(かいのしょうただおと)の作品を「デロリとしている」と評したことがきっかけで、甲斐庄や岡本神草の描く退廃的、暗黒的な女性像が「デロリ」画とあだ名されるようになった。同業者からも「穢(きたな)い絵」という批判を浴びながら、「ありきたりの美人画」には伝えることのできない女の暗部や妖しさを表そうとしたのが「デロリ」だった。大正デカダンスのあだ花ともいえる異様な作品群は、現代のゴス系イラストの源流となっているかもしれない。
さて、男の画家たちが懸命に暴こうとした「女の本性」。明治時代以降は、女の側からそれを描く女流画家たちが現れた。それまで絵の中に期待された「ありきたりの美人」や予定調和な「女の暗部」イメージを突き返す、女による「妖しさ返し」だ。大阪の女性画家・島成園は、自画像をアザのある女として描いた。当時、画壇で少数だった女性画家、しかも美人だったゆえに様々なハラスメントも受けた成園が、既成の美やジェンダーへの反抗をあらした作品にも見える。
上村松園は、芸術の題材として定番の「狂える女」に、精神病院で患者を取材してリアリティを求めた。文学の世界では与謝野晶子が、女の赤裸々な欲望を表現。短歌集『みだれ髪』の装丁は、藤島武二が手がけている。梶原緋紗子が描くのは、疲れた女、労働者階級の女、老女など「ありきたりの美人」枠から大きく外れる女たちだ。省みられず絵にも描かれることのなかった女たちの報われなさやため息が、画面からじんわり染み出してくる。これぞ、からみつかれるような「妖しさ」ではないか。
「あやしい絵展」
会場:大阪市歴史博物館(大阪市中央区大手前4-1-32)
期間:2021年7月3日(土)〜8月15日(日)
https://ayashiie2021.jp/