阪神、大洋(現DeNA)でマスクをかぶり、コーチも務めた“ダンプ辻”こと、辻恭彦さん(78)は現在、ミットをペンに代えて活躍中だ。現役時代は、あの江夏豊に「オレが投げるときはダンプさん」と指名されるほど卓越したインサイドワークを秘めていたが、もっぱらブルペンが居場所。しかし、その経験がいまに生き、週刊ベースボールの連載「キャッチャーはつらいよ」が大人気だ。
横浜・保土ケ谷区にある自宅の郵便ポストにはひっきりなしに野球ファンからの手紙やハガキが舞い込む。阪神、大洋などで23年間プレーし、コーチも経験。その間、ファンレターに縁のなかった男はいま、1通1通に目を通し、感謝の日々を過ごしている。
「ただ野球の生のおもしろさを正直に書いているだけなんですが、お陰さまで反響が良くてね。私はほとんどゲームに出てなくて、実績もないのに手紙が凄いんです」
というのも週刊ベースボールで始まったコラム「ダンプ辻のキャッチーはつらいよ」が大好評。すでに連載は50回を超え、雑誌社やスポーツ記者からの取材依頼があり、読者が激増したという。
「私は受けるのが大好きでブルペンで毎日400から500球は球を受けていました。だからミットが破れて自分で修理して取りやすく直したものです。ミットを買う金がなかったからね(笑)」
1962年に西濃運輸から阪神に入団。タフでずんぐりとした体形、しかも運送会社出身ということで当時の土井垣武コーチから「ダンプ」と名づけられた。同時期に在籍した”ヒゲ辻”こと辻佳紀さんの陰に隠れていたが、捕手としての才能と陰の努力を見抜いていたのが67年に入団した江夏豊だった。
すぐに主戦となった江夏は大事な試合では藤本定義監督に「オレが投げるときはダンプさんにしてくれ!」と直訴していた。68年、シーズン354奪三振記録を王貞治から奪って決めた試合もしかり。73年、一人芝居の決勝ホーマーを打ってノーヒット・ノーランを達成したときもダンプ辻がアシストした。
「稲尾さんの記録を破った試合、江夏は王さんから三振を取って記録達成と勘違いしていたが、私が”あと一つだ”と言ってハッと気がついた。それから王さんに打順が回るまで三振をわざと取らずに投げ、公言通り王さんから三振を奪って記録を破ったんです」
息の合った名コンビとして知られるが、綿密に打ち合わせをすることはなかったという。「私が江夏よりかなり年上と言うこともあり、江夏は話しかけてこなかった。あうんの呼吸でも、意気投合でもありませんでした。ほとんどストレートだけでカーブは様子見か、捨て球。要するに、コースの投げ分けで、1センチの勝負ですよ。だからキャッチングが重要でした」
69年、鳴り物入りで田淵幸一が入団したため、ますます出場機会を失ったが、辻さんは腐ったりはしない。キャッチング技術を磨きつつ、相手の研究も怠らなかった。
「あの当時、阪神は癖を盗むとか、細かにデータを分析することはなかったんですが、私は独自に常に研究していました。その証拠に当時、広島の外木場投手は振りかぶったときに右手首が曲がるとカーブだった。その癖を見抜いてホームランしたんです。外木場は驚いていましたよ。阪神にそんなに選手がいるんだって」
通算打率は2割弱。しかし、磨きに磨いたインサイドワークは高く評価され、大洋(その後、横浜大洋)に移籍後も遠藤一彦らエース級の投手から「ダンプさんに受けてもらうと勝てる」と言ってもらったという。
引退後は両球団でコーチを務め、その後はアマチュアを指導。ユニフォームを脱いですぐに「国際総合健康専門学校」に通い、整体師の資格を取ると、その才能が認められ、理事を兼務して整体師の講師を3年務めた。
そのときの生徒の1人が大相撲の三杉里。なぜか現在も開業する意思はないそうだが、近所のお年寄りの健康を保つために整体をすすめている。私も取材の合間に整体をしてもらったら体が楽になり、歩きが軽くなった。
整体の才能をいかせばいいのに、と思うのは余計なお世話か。現役時代と同様、欲のないお人柄だった。しかも話は興味深いものばかり。野球コラムが人気なのもうなずける。