獣医師のA先生が、動物病院の先生になられて13カ月目のことです。ある日の帰り道、事故に遭いました。帰宅中、信号待ちしているA先生の車は、後ろから猛スピートで走っていた車に追突されました。そして、A先生は長い長い眠りにつきました。
事故のあと、A先生の意識が戻ったのは3カ月後だったといいます。脳神経に大きな損傷があり、高次脳機能障害を引き起こしていました。手足に大きな損傷はなかったのですが、うまく動かせない状態になっていました。そして何より、その人が、その人ではなくなってしまったようでした。あの日まで積み上げてきた獣医師としての経験や知識が、粉々になっていたというのです。
◇ ◇
私が現在勤務している動物病院は、実はA先生が勤務しておられたところです。A先生が入院されたために人手が足りず、急きょ働くことになったのです。
A先生が担当されていた多くの患者さんも診察しました。A先生の書かれたカルテを読むだけで、優秀な獣医師であることがわかりました。獣医師になられてまだ1年と少しだというのに、そうとは思えない診断と治療の完成度に感心しました。
A先生が勤務されていたころの病院は、動物看護師の人数が少なく、A先生はあらゆる仕事をされていました。診察して、薬局で薬の処方を作って、そのまま受付でお会計…というのを一人でこなすこともしばしば。それでも診察中はじっくりと飼い主さんのお話を聞いてくれる「さわやか青年」だったそうで、マダムに絶大な人気があったそうです。後釜が私のようなおばちゃんだったので、飼い主さんはみなさん、非常にがっかりされていました。
ある日、珍しい不整脈の病気にかかっている柴犬が診察に来られました。A先生が事故に遭われる前に診断され、的確な治療をされている犬でした。私は、A先生が退院されて職場に復帰されたときのことを想像しました。A先生がその柴犬を診てがっかりされないように、治療を頑張らねば…。お会いしたことのないA先生のために、私が出来ることはそのぐらいでした。
その柴犬の治療は1年余りに及びました。その不整脈の根本治療はペースメーカーを埋め込むことなのですが、飼い主さんは手術を希望されませんでした。そこで、治療は飲み薬のみで行なわれました。
当初は症状の改善が出来たのですが、病気は徐々に進行し、最後は薬を飲むことを非常に嫌がるようになって…。そして、A先生の職場復帰を待たずして、ついに亡くなってしまいました。
担当していた患者さんが亡くなってしまった悲しみ、そして獣医師として職場復帰が出来ないままで、患者さんの力になれなかった不甲斐なさ…。いろいろな感情が沸き起こっておられるだろうA先生のことを思うと、私はとても悲しく思いました。
A先生のためにも、この柴犬の症例レポートを書き、学会誌に投稿することを思い立ちました。作業には、1年がかかりました。もちろん、その症例レポート作成者名は、私とA先生としました。
◇ ◇
風の便りで、A先生は出身大学の近くの街に引っ越しされているようでした。私はA先生の名前の入った症例レポートが掲載された学会誌を、A先生に郵送しました。私がどのような経緯でこの動物病院で勤務しているのか、そして、この症例について感じたことを書いた手紙を添えて。
まもなく、しっかりとした文章で、A先生から返信のメールが届き、私は少し安心しました。A先生は、獣医師としての粉々になった経験と知識を、再び手繰り寄せてつなぎ合わせるために、大学付属の動物医療センターで研修医として勉強されておられました。身体のリハビリも続けておられました。
それからさらに数年経ち、つい先日、A先生が車いすを降りて、ステッキを持ってゆっくり、しかししっかりとした歩様で、歩くことが出来るようになった動画を拝見しました。
しっかりと、前を向いて生活しておられるA先生に、頭が下がりました。A先生は、今日もリハビリを続けておられます。
◇ ◇
■高次脳機能障害とは 交通事故や外傷などで脳が部分的に損傷を受けると、記憶力、集中力の低下、思考能力や空間認知能力の障害、言葉がうまく理解できない/話せない、感情や行動の抑制がきかなくなるなどの症状が現れることがあります。こうした症状によって、日常生活に支障を来たしている状態が、高次脳機能障害です。損傷を受けた脳内の箇所によって、症状の現れ方はさまざまです。外見ではこれらの障害が分かりにくいため、本人自身やその家族も症状の理由が分からずに、戸惑いや誤解、トラブルが起こることも少なくありません。この障害についての正しい知識と情報の普及が求められています。