コロナ禍において令和3年の初詣は「正月三が日にこだわらず分散参拝を」との呼びかけがあり、それに応じる形で神社によっては「幸先詣」や「予祝詣」といった名称で前倒し参拝を勧めている。筆者は氏神様への「お一日参り」を長年、毎月一日に継続してきており、元旦(正月)も12回ある「お一日」のうちの一回と考えると、恐縮ではあるがなかなか前の月のうちに参ろうと思えない。(けっして「幸先詣」や「予祝詣」を否定するというわけではない)
神戸人にとって三社参りといえば「生田神社」「湊川神社」「長田神社」が有名である。生田神社が稚日女尊(わかひるめのみこと)を平安時代から現在地にて祀り、長田神社に事代主神(ことしろぬしのかみ)が神功皇后の時代より祀られているのと比べ、湊川神社の創建は明治5年5月で、楠木正成公(1336年5月25日没)を主祭神として祀っており、まだまだ新参者だ。
しかしながら地元では「楠公さん」として最も親しまれている神社のひとつである。楠木正成は後醍醐天皇に仕えた河内の千早赤阪村の土豪だ。「太平記」の登場人物としても人気がある。
湊川の合戦で足利尊氏に敗れ自刃したため、現在の湊川神社の境内に墓所がある。1336年から湊川神社が創建されるまでに500年余りの年月が経っているが、その間に徳川光圀が1692年に楠木正成の石碑を建てて祀った。(現在、石碑の隣には徳川光圀公の銅像がたっているが、黄門さまご本人が湊川に立ち寄ってはいない)幕末には尊王攘夷派の志士たちが崇め奉ったのちに、明治になって神社創建の機運が高まったのである。
実は他にも神戸の兵庫区から中央区にかけて様々な楠木正成の痕跡が残っている。地名にも楠町や菊水町(家紋)、多聞通(幼名の多聞丸から)などが存在する。また東京には皇居前に東京三大銅像に数えられる、馬に乗る勇壮な正成公の銅像があるし、全国の正成公と由縁のある、いたるところにその痕跡をとどめている。それほどまでに人気を集める秘密はどこにあるのだろうか。
赤穂事件の「忠臣蔵」の吉良上野介で有名な吉良家は足利一門の名門だ。その吉良家に対し、討ち入りを果たした赤穂浪士の大石内蔵助に、後醍醐天皇に忠臣を誓い足利尊氏との戦いに敗れた楠木正成を投影する風潮が、江戸時代にあったとの指摘がある。(湊川神社宮司)また、「楠公の歌」(明治36年)は嫡子正行との「桜井の別れ」を描いた唱歌だが、今でも湊川神社では「楠公の歌」を合唱する会が催されている。(桜井は現在の大阪府島本町)楠木正成公の精神には、「忠」や「義」はもちろんのこと、正行公(小楠公)の「孝」、そして「滅私奉公」の価値観が流れている。
「太平記」の冒頭には、太平の世を守るのは「君主の徳の高さ」と「臣下の行いが道から外れないこと」だと記されている。このことは現代社会に生きる人々にとっても理想の社会像であり、湊川の合戦から680年を経過した今でもまったく風化していない。一国のリーダーに対して直に尊敬の念を抱けることは人々にとって願望でもあるのではないか。
年末か年始かは別として、混雑を避けて湊川神社にお参りした際には楠木正成公の墓所にも手を合わせたい。