新型コロナウイルスの感染者が急増する東京都で、新宿は「夜の街」という表現と共に感染多発エリアとして全国的に注視された。だが、その言葉から街に生きる人たちの「顔」は見えてこない。この街に根差し、独自の文化を発信してきた店の一つとして、新宿駅構内で開店30周年を迎えた飲食店「ビア&カフェBERG(以下・ベルク)」にスポットを当て、同店で始動した取り組みに接した。
7月19日に開通したJR新宿駅の東西自由通路の東口方面改札を出て20秒ほどの場所にベルクはある。手頃な値段で、コーヒー、ビールやワイン各種、ハムやソーセージ類、ホットドッグや五穀米のカレーなどが食べられる。
オーナー店長の井野朋也氏は詩人だった父が20年間営んだ喫茶店を継ぎ、飲食店として1990年7月25日にオープン。95年からは店内の壁を利用して写真作品が展示され、関連書籍や同店が発行するフリーペーパー「ベルク通信」も置かれ、文化の発信基地という側面も感じられる。
緊急事態宣言の翌4月8日から2カ月間、営業時間を短縮。産地直送の野菜や果物などを販売するマルシェ(食品市場)としてテイクアウト専門店に。朝7時から夜11時までの通常営業に戻った現在、店内滞在の時間を30分に制限。井野氏は「客数は半減しましたが、商品を購入してくださることで売り上げは8割くらい戻ってきています」。コロナ禍がマルシェという新たな営業形態をもたらした。
食材だけでない。店頭には斬新なスタイルの書籍「新宿・BERG編 ベルクの風景」(東京キララ社、税別1000円)が加わった。作家・石丸元章氏による詩に、オーナー副店長、写真家の迫川尚子氏が撮り下ろした写真がコラボ。バラ刷りをビニールで密封した「ヴァイナル文學選書」のスピンオフ企画で、装幀を担当した井上則人氏は「片面刷りなのでページごとに行間の幅や文字の級数を変えるという演出ができます」と説明する。
石丸氏は米国の文豪ジョン・スタインベックによるベーコンの描写がベルクで重なる瞬間の感激をつづった。「早朝の仕込みの時間の中で、徐々にベルクという店ができあがっていく光景を目の当たりにした時、農夫のおかみさんが朝の支度をしていくスタインベックの絶妙な描写と同じだと感じた」。脂したたるベーコンのアップを撮った迫川氏は「朝、仕事帰りのホストさんもたくさん来られるのですが、彼らの間ではベーコンドッグが人気です」と、新宿のホストと米国の文豪がベーコンでつながる偶然を明かした。
井野氏は店頭に置かれた詩集に縁を感じる。「父が詩人だったことに反発があり、父から離れて、僕らはビジネスでやるんだと思っていたのに、いつの間にか店自体が詩になって帰って来た」
ちなみに、井野氏の祖父は戦時中の近衛内閣と東条内閣で農林大臣を務め、戦後は自民党の参院議員となって第2次岸内閣で法務大臣を務めた井野碩哉(ひろや)氏。「祖父は岸信介さんと無二の親友で、孫の僕も紹介されて岸さんと握手したことがあります。祖父が死んだ時も岸さんは来てくれました」。安倍晋三首相と「祖父」でつながる井野氏。イデオロギーを超え、雑多な人たちが集う同店を語る上での一つのエピソードである。
「新宿は雑多な街ですが、お客さんが雑多な店は意外とない。ここは老若男女、金持ちもホームレスも、政治家も与野党問わず来られます。この店が立ち退きかという時期、2万人の反対署名が集まってJRが折れた。『お客さんの署名によってあきらめました』と文書で書かれていた通り、ここはお客さんが作り上げた店です。父の店と合わせると50年。コロナでマルシェと合体し、新しく生まれ変わった0歳でもあります」。井野氏は先を見据えた。
新宿をテーマに写真を撮り続ける迫川氏は「元々はコロナ以前に発表するつもりが、そこにコロナ中のことが加わって厚みが出た。新宿はコロナで何もかも変わって、またゼロからという気がします」。石丸氏は「歌舞伎町の店が『やり玉』になって、あたかもウイルス繁殖現場のような言われ方をしているが、丁寧にきちんと準備をしている飲食店が長年続いている。それは新宿だけではなく、日本全国の飲食店の姿。ベルクという店を通して全国の飲食店の方たちの気持ちを知ってほしい」と訴えた。