「近鉄3年目、小林繁さん(コーチ)に期待されたんですが、右肩痛で最後はもうボロボロ。京セラドームのマウンドに立つこともなかった」
このとき33歳。台湾球界、横浜(現DeNA)のテストも受けたが、最終的に巨人OB末次利光さんの紹介で建設会社に就職した。
「一時はマグロ漁船にでも乗ったろ、と思いましたが、OBの紹介で辞めるわけにはいかない。34歳からの3年間が一番きつかった。年360日働きましたね」
給料は現役時の5分の1に。不運は重なり、信頼を勝ち取ったその会社が倒産寸前になった。だが、人生ってやつは分からない。移籍し、リーダーに指名されたのが当時、休眠会社だった「スチールエンジ」だった。
「ここまで失敗もし、成功もして来た。ジャイアンツで学んだのは基本の大切さ。野球に育ててもらったので(選手の)セカンドキャリアを手助けし、元選手でもできるんだ、というのを実証したい」
そのために温めているプランが社会人野球チームの創設だ。
「運営費、球場、選手のリクルートなど課題はありますが、2020年までにはスタートしたい。大切なのは継続すること。その意味でも会社を、この先ずっと続けていかなくちゃいけない」
54歳の豪腕。人生のマウンドで竜は舞い続ける。