天下分け目は関ケ原ではなかった―。国際日本文化研究センター(京都市西京区)の笠谷和比古名誉教授(76)が、関ケ原の戦いから大坂夏の陣までの天下を論じた新刊「論争 大坂の陣」を刊行した。関ケ原の勝利後、徳川家康は豊臣秀頼と共存を図ったが、死後の不安からか討伐に転じる。方広寺(京都市東山区)の鐘銘問題を機に、夏の陣の激戦に至る経緯を明らかにした。
家康は関ケ原を経て1603年に征夷大将軍となり「江戸幕府を開き天下を支配した」との説明は誤りだと笠谷さんは本書で説く。
関ケ原での勝利は、加藤清正や福島正則など豊臣系大名の協力があってこそ。彼らは論功行賞で、西国に広い領地を得た。家康は将軍になっても伏見城を拠点とし「政治の中心を江戸に移すには力不足」。そもそも、江戸城や城下町の開発が進んでいなかった。
家康の死後は豊臣家に主導権が戻る可能性も想定されていたと、武将や宣教師の交わした文書から説く。
豊臣家と東西日本で住み分けて共存する姿勢だった家康は09年、亀山城(現亀岡市)の改修など大坂包囲網を整え「制圧に転じた」。主導権が家康にあることを11年に二条城で秀頼に認めさせたが「それ以上出られなくなった」。当時では超高齢の70代に達していたが、滅ぼす大義は得られない。
そこに12年、秀頼が方広寺再興の中で「国家安康」などと刻んだ鐘を鋳造。家康の名前2文字を分断して書き込んだ呪いとされ、大坂の陣を招いた。
難癖とする説もあるが、当時は武士の名前を呼ぶことは「首が飛ぶような禁忌。官職名などで呼ぶべき」であり、それを盛り込んだ文言を刻んだことが「怒りを買って当然」と笠谷さん。
冬の陣は籠城戦だったが、夏の陣は徳川方20万人と豊臣方10万人が平地で対決。兵数は関ケ原の2倍という。
通常は先陣同士の戦いで勝負が決まるが、決死の豊臣方は最初から全軍で突入。徳川方の武将も多く戦死する「前近代の日本では最大の激戦」の末、豊臣家は滅亡した。
江戸の繁栄度や平均寿命、名前の呼び方などを「今の感覚で捉えてはいけない」。「常識」の多様性に気づくことが「歴史を研究する意義」と語る。
新潮社刊。四六判238ページ、1815円。