たっぷりのねぎに醤油とレモン風味が香る「ねぎ焼」。発祥となった「ねぎ焼やまもと」は、十三に本店を構える行列必至の超人気店です。今回は、そんなねぎ焼を大阪人のソウルフードに成長させた、苦難と愛情の誕生秘話をご紹介します。
開業のきっかけは「夫の余命宣告」
1965年。夫・長治ととつつましやかに暮らしていた山本高恵に、長男から人生を一変させる言葉が告げられます。
長治の肝臓ガンが発覚し、余命半年ということ。「私、これからどうやって生きていったらいいの?」突如訪れた悲劇に涙する高恵に、長男は子どもたちで母親を支えていくと励まします。
夫婦には7人もの子どもがいました。上の2人は成人していたものの、末っ子の娘はまだ小学6年生。しかし、彼らを養ってきただけに高恵は料理の腕に自信がありました。
高恵は考えた末に、店を立ち上げることを長治に伝えます。当時は癌が発覚しても本人に告知しなかったことが多かったため、本当のことは告げませんでした。
お店の業種は、子どもたちから好評だった「お好み焼き」。そして、夫が生きている間に店を見せたいという思いからオープンを急いだ高恵。決意から4カ月後、実家があった十三にお好み焼き店を開業します。
座席はカウンター7席、メニューはお好み焼き・おにぎり・味噌汁の3つだけというスタート。お店の開業を喜んだ長治。その3カ月後に52歳の若さでこの世を去ります。
繁盛の理由は「大阪万博の工事」
経営はすぐに軌道に乗り、繁盛店となりました。
背景には、オープンから5年後に開催された大阪万博がありました。準備のため全国から集まった建設関連の従事者が、仕事の疲れを癒しに歓楽街・十三へ。その流れで高恵の店も繁盛したのです。
「ねぎ焼き」誕生のきっかけは娘のまかない
店の営業時間は夜11時30分まで、高恵1人で切り盛りするのは難しく、当時高校2年生の長女・雅子が学校終わりに手伝っていました。彼女の楽しみは、まかないとして大好物のお好み焼きを作ることでした。
高恵はそんな娘に、好きな具材と量で自由に作らせていました。雅子の好みは、大好きなねぎをたっぷ入れて食べること。
そんなねぎたっぷりのお好み焼きを、同じくねぎが大好きな妹たちにも家で振舞っていた雅子。ある時、妹がいつものソースでなく「しょう油」をかけてみないかと提案します。
さらに、別の日には「レモン」も加えてみることに。子どもながらの遊び心でアレンジしたお好み焼きを、三姉妹で楽しんでいました。
そして、しょう油とレモンをかけた同じものを雅子がお店のまかないで食べていると…それを見た客から「食べたい」とリクエストが!
三姉妹が遊び心で作ったねぎたっぷりお好み焼きが、常連客の中で評判になります。
開店から3年後の1968年、「ねぎ焼」として正式にメニューに。さらに店名を「ねぎ焼やまもと」に変更し、瞬く間に十三で誰もが知る店となりました。
そんなねぎ焼誕生の立役者・雅子さんは、50年以上経った今も母の味を守るため店に立ち続けています。当時中学生と小学生だった妹の2人も同じく現役でねぎ焼きを焼いています。雅子さんは「ねぎが大好きで、ただ好きなものを作って食べていただけで、ここまでの存在になるとは考えもしなかった」と話します。