新大阪から博多までを結ぶ山陽新幹線。1975年3月10日に全線開業し、もうすぐ50周年を迎えます。実はこの1975年、博多の明太子が全国に広まり、広島カープが初めてリーグ優勝した年でもあるのです!
「明太子の普及」と「広島カープ優勝」この二つのきっかけを山陽新幹線がどのように作ったのでしょうか?そのストーリーに迫ります!
博多生まれの「辛子明太子」 ルーツは創業者の思い出
まず一つ目は、「明太子の普及」。ご飯のお供として一番に名前が挙がる人も多いのではないでしょうか。
その明太子の歴史を作ったのが、博多にある明太子発祥の店として有名な「ふくや」です。
ふくやマーケティング部の中山徹也さんにお話を伺うと、50年前に山陽新幹線が博多に乗り入れするようになったことが、明太子が全国に広まっていくきっかけになった事実が判明します!
明太子が生まれたのは、1949年。そのきっかけは創業者の川原俊夫と妻千鶴子のあるやり取りでした。もともとは博多にあるごく普通の食品店だった「ふくや」。売り上げは良かったものの現状に満足していない俊夫は、この店にしかない独自の製品を作りたいと考え、千鶴子に伝えます。
そこで思いついたのが、釜山で食べた、たらこのキムチ漬け「明卵漬(ミョンランジョ)」。もともと戦後に韓国の釜山から博多に引き上げてきた俊夫が幼少期に食べていた思い出の味で、これを再現したものを店の名物にしようと決めたのでした。
試作を繰り返すも反応は散々 完成までにかかった期間は…
こうして、明太子作りがスタート。子供の頃の記憶でスケトウダラの卵に味付けするも、なかなか思うようにいきません。さらに近所の人に試食してもらうも、反応は散々。当時、唐辛子の辛さに慣れていなかった日本人の口には合わなかったのです。
そこで、辛さを抑えるために砂糖を入れてみるなど、試行錯誤を繰り返します。月日は流れ...その間なんと10年!1959年、とうとう俊夫・千鶴子が納得する「明太子」が完成します。
その味の秘密は、唐辛子をパウダー状にすることでした。辛み抑えつつ味を馴染ませることができ、辛味も風味もバランスよく作ることができるのです。
県外のビジネスマン達によって“博多の幻の美味”に!
完成した明太子は、博多の中洲の料理屋が酒のつまみとして出していたのをきっかけにじわじわと人気が広がり、あまりの美味しさにお土産にしたいという声も増えてきました。
しかし...ふくやの明太子は博多での製造・販売をモットーとしており、新幹線もない時代に気軽に買えるものではありません。そこで、どうしても食べたい人は、現金書留で「このお金で買ってださい」と手紙を送ってくるという、まさかの行動に出たのです。
他にも、大阪の高級キャバレーからお歳暮用に1箱1万円の明太子を300個も注文が来るなど驚きのエピソードが。それほど、当時の大阪人にとって明太子は憧れの存在だったのです!
俊夫の驚くべき行動により明太子の運命が変わる
その後1975年、とうとう山陽新幹線が博多まで開通しました。全国の会社の支店が多い博多は、新幹線のおかげで日帰り出張ができるようになり、賞味期限の短い明太子もお土産にしやすくなったのです。
さらに博多の街を盛り上げたいという気持ちが強かった俊夫は、明太子は誰が作ってもいいと、10年かけて作った製造法を秘密にすることなく広めていきました。
こうして50年、明太子は博多の土産物として定着し、山陽新幹線によって全国に運ばれています。