国内外のミュージシャンが集う「フジロックフェスティバル」が、今年も新潟県湯沢町の苗場スキー場を舞台に26日開幕する。国内ロックフェスの先駆けとされる野外音楽イベントの仕掛け人の1人が、岡山市在住の音楽ジャーナリスト花房浩一さん(68)だ。東京から生まれ故郷に拠点を移した今もDJとして出演するなど関わりを持ち「音楽には人生を変える力がある。魅力をたくさんの人に伝えたい」と語る。
グレーの髪とひげをたくわえ、反戦のシンボル・ピースマークが入った赤いTシャツを着こなす。花房さんは、見るからに反骨のロックな雰囲気を漂わせていた。
行動原理
岡山生まれ、大阪育ち。耳にしたメロディーは何でもリコーダーで吹いたという少年は、成長するにつれ音楽にのめり込む。ティーンズ期の衝撃的な出会いも影響した。米ロックバンド・シカゴと、フォークシンガー岡林信康。「初めてのコンサートで自然に踊り出したシカゴ、歌に強烈なメッセージが込められた岡林。音楽の力を強く感じたきっかけだった」
高校生になると音楽喫茶に入り浸り、関西のバンドが集まる野外コンサート・春一番のスタッフとしても活動。進学した岡山大では、ライブをプロモートするようになった。「この頃から行動原理は変わっていない。自らの欲求に従っているだけ」と振り返る。
現場をつくる
大学卒業後は関西のレコード店に就職するも「世界を見てみたい」の思いにかられ、1980年に日本を脱出。延べ2年間滞在した英国で世界最大級の野外音楽イベント「グラストンベリー・フェスティバル」を目の当たりにした。広大な農場の真ん中に設けられたステージ、キャンプをしながら演奏が始まるとステージ前に集まり思い思いに音楽を楽しむ観客…。「客席に座って聞くのが当たり前だった当時の日本では考えられないライブの在り方。ものすごいカルチャーショックだった」
世界にはこんなに面白い音楽イベントがある―。英国での経験を広く知ってもらいたいと思ったのが、帰国後ジャーナリストになった理由の一つだ。国内外のフェスやコンサートに足を運び音楽雑誌などへ寄稿するとともに、新しいミュージシャンを次々と発掘した。「今も“本職”は音楽ジャーナリストだと思っている」。活動を通じ知り合ったのが、後にフジロックを主催する音楽プロモート会社を立ち上げたばかりの日高正博さんだった。
87年、帰国後も毎年欠かさず取材していたグラストンベリーに日高さんを案内。後にフェスを開く手伝いを頼まれる。「グラストンベリーでの経験が彼に火を付け、こんなフェスを日本でもやりたいと思ったんだろう。それでフェスとは何かを書くことではなく、現場をつくることで伝えられたらいいなと思ったんだ」
思いは届く
1997年7月。富士山を望む山梨県のスキー場で2日間の日程で開かれた第1回のフジロックには、世界的な人気バンドのレッド・ホット・チリ・ペッパーズ、グリーン・デイがエントリー。ところが、台風の直撃で初日から豪雨に見舞われ、2日目は中止に。会場内には風雨をしのげる場所が少なく、野外フェスに不慣れな参加者に体調不良者が続出し、運営に批判が集中。東京で開催した翌年の2回目は、狭い会場で観客の密集による事故の危険性が問題視された。
「必ずしも最初から順調だったわけではない。だが、ファンもフジロックがうまくいかなければ、こんなフェスは日本ではできないと分かっていた」。花房さんたちの思いは届いており、「運営と観客、それぞれが回を重ねる中で少しずつ改善点を修正していったことで、日本を代表するフェスに成長したんだと思う」。99年の3回目から会場を移した苗場スキー場は“夏フェスの聖地”として知られるようになった。
「仕事をするのに必ずしも東京である必要はない」。2011年の東日本大震災などを経て地震に対する不安が拭えなくなり、岡山に転居した現在も、会場から写真やリポートでフェスの様子を速報したり、トークイベントに出演したり。公式ファンサイト「フジロッカーズ・オルグ」の代表を務める。
岡山でも「フジロッカーズ・バー」と銘打ったイベントを企画するなど、音楽の魅力を発信し続けている。「単に音楽好きが集まり、DJの流す音楽について語り合うことがあれば、(米音楽史に残る1969年の野外コンサート)ウッドストック・フェスティバルを体験した人を呼んで話を聞いたこともある。とにかく面白い、楽しいと思ったことをみんなで共有したいんだ」