東京都渋谷区の路上で8月20日夜に母娘が包丁で刺される事件が発生し、警視庁は埼玉県に住む中学3年の女子生徒を殺人未遂容疑で現行犯逮捕した。「夜回り先生」こと教育家の水谷修氏は事件を受け、報道の在り方について見解をつづった。
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この事件について書いた記事について、下記のメールが私の元に届きました。それを、ここに載せます。(原文そのままですが、場所や学校、個人が特定される部分については、この方の許可を得た上でカットしました)
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「初めてご相談させていただきます。今、ニュースになっている埼玉県の中学3年生の事件についてです。私の娘も同じ市内の中3です。昨日から近所に何台もの黒塗りの車や、複数人の男性がうろうろとしています。実名を出して聞き込みもしている様です。この事で、SNS等での犯人探しがヒートアップし、娘はもしかしたら友達が犯人かもしれないと泣きながら仕事中の私に電話をしてきました。これが昨日のことです。実名を出してインタビューしている報道者もいる様で、狭い市内ではあっという間に噂は広まります。同じ学区内の家庭に、卒業アルバムを見せてほしいと周っている報道陣もある様です。今日、娘は体調不良になり夏期講習から早退してきています。娘だけでなく、不安定になっている子供がどれほどいるのかと不安になります。報道のあり方に、疑問や憤りを持ちつつも私にはどうして良いかわかりません。なぜ、報道陣は実名がわかったのか。住所がわかったのか。交友関係がわかったのか。個人情報保護法があるなか、この様な漏洩は許せません。私は娘のために、同級生のために、どう動いたら良いのでしょうか」
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事件が起きるたびにいつも感じていることですが、多くの報道機関は、少しでも早く正確で詳しい情報を伝えようと、加害者の関係場所や関係者だけではなく、被害者の関係者に対しても、取材を続けます。この行為自体は、報道機関ならばやらなくてはいけない取材の一環であることは、私も認めます。しかし、その取材のやり方には、一定の節度と限界があるべきではないのでしょうか。
私は、報道には、二つの、ある一線があると考えます。一つは、「必ず越えなくてはいけない一線」です。どんなに権力からの圧力や暴力などの危険が降りかかることがあっても、報道しなくてはならないことがあります。言い換えれば、自分の立場や命が危険にさらされても報道しなくてはならないことがあります。この一線を越えるのは、メディアや記者の「正義」の心です。
二つ目は、「決して越えてはいけない一線」です。そのことを、強引な取材をし、報道すれば、より多くの人に、読んで、あるいは見てもらえたとしても、報道してはいけないことがあります。簡単に言えば、それを報道すれば、新聞や雑誌なら、その販売部数が増え、テレビなら視聴率が上がるとしても、報道してはいけないことがあるということです。この一線を守るのは、メディアや記者の「愛」の心です。
これと同じことは、報道を手にするみなさんの中にもあります。みなさん自身が、知らなくてはいけない情報と、知る必要もない、それどころか知ってはいけない情報を、「正義」と「愛」の心で、取捨選択し、つまらない情報や人を傷つける情報を、ただ、お金のために流し続けるメディアや報道媒体を相手にしない賢明さを持てば、おのずと、そのような報道は消えていきます。