「何をすればジャイアントキリング(番狂わせ)が起こせるか。そこから逆算して計画を立てるんです」。
監督就任からわずか2年目で滋賀県の近江高校サッカー部を全国大会に出場させた前田高孝(まえだ・たかのり)監督(36)。生徒に「お前ら、海賊になれ」とけしかける、型にはまらない指導の背景には自身の波瀾万丈(はらんばんじょう)な生き方が影響している
監督就任2年目に1、2年生のみで全国出場
近江高校は滋賀県彦根市にある共学の私立高校。サッカー部の指定強化クラブ化に合わせて2016年、前田監督率いるチームが動き出した。そのわずか翌年、1年と2年のみのチームで、全国高校総体(インターハイ)の全国大会に出場。乾貴士(セレッソ大阪)らを輩出した野洲高などを破った。2年後の2019年に再びインターハイに、さらに翌2020年には選手権大会出場も決めた。県内で優勝争いの一角を占める存在になった。
元Jリーガー、引退直前は「うつ状態」
前田監督は全国出場常連校の滋賀県立草津東高を卒業後、志願して練習に参加してJ1清水エスパルスに入団。しかし、じん帯断裂などのけがに泣き、2シーズンで戦力外に。その後もなんとかプロを続けるため、3年ほど、シンガポールや日本フットボールリーグ(JFL、実質4部リーグに相当)、ドイツ、ルーマニアと渡り歩いた。
「うつ状態だった」と振り返るのは最後のルーマニア。プロテストに落ち続け、周囲から認められない中、自信を失っており、テスト会場に向かう中「そうか。けがをすれば、テストを受け続けなければいけない状態から解放される」と考えた。「好きだったサッカーを嫌いになっていた。苦痛で仕方なかった」と前田監督。そのテストでは実際にひざをけがし、その時「これでサッカーをやめられる」と痛みでもがきながらも安心したという。
ルーマニアからドイツに電車で2晩かけて帰る途中、「後悔はないか」と自問自答を繰り返し、22歳で引退を決めた。
大学進学、世界放浪、タイの孤児院にグラウンド…
引退後、「社会起業を学びたい」と関西学院大学に23歳で入学。在学中はアジアや南米をバックパックで回り、タイの孤児院にサッカーグラウンドを造ったり、インドにあるマザー・テレサの「死を待つ人の家」でボランティアをしたりした。そのほか、中学生向けのサッカースクールの運営、ホームレスでつくるサッカーチームのコーチ、大阪市西成区の児童養護施設のスタッフなど、興味の赴くままに動いた。
大学4年からは関学サッカー部のコーチも担当した。卒業後はヘッドコーチを続けていたが、うまい選手が集まる関学で教える中で「自分が指導しなくても勝てるのでは」と疑問を持つように。「ゼロから夢中で成し遂げたい」という思いを抱く中、サッカー部に力を注ごうと計画していた近江高と出合った。
「3年以内に全国に行く」 生徒に訴え70人集める
2015年、監督になることが決まってからの行動力がすごかった。1年間掛け、16年4月に入学する選手集めに奔走。県内はもちろん、関西圏の中学校やクラブチームを車で回った。無名の高校には誰が見てもうまい選手は来てくれない。技術はないけど足が速い、身長は低いが技術があるなど「何か一つ、光っているものを持つ選手に声をかけまくった」という。
その際はこう説いた。「人生には道が2つある。他人がつくった道と切り開く道だ。近江高なら自分で新しい歴史がつくれる。想像してほしい。入学して3年以内に必ず全国に行く。その目標が実現すれば、めちゃくちゃ衝撃的だ」。その結果、70人を集めた。学校も驚き、人工芝のグラウンド計画も一気に話が進んだという。
エリートにならず、常に挑戦者であり続けろ
前田監督が大事にしている言葉は「人生を切り開く」や「サバイバル」。まさに自身も体現してきた。部員にも「自立して社会に変革を起こせ。イエスマンにならず、自分の意見を持て」と伝えてきた。その中から生まれたスローガンが「ビー・パイレーツ(海賊になれ)」。エリートにならず、常に挑戦者であり、仲間のために戦う-などの意味を込めた。滋賀といえば琵琶湖だが、琵琶湖から全国の大海原に飛び出すという願いも織り交ぜた。
指導では「本物に触れさせる」ことに力を入れる。名門の東福岡高や富山第一高と練習試合を組んだり、レスリングチャンピオンらの講話を聞かせたりした。またサッカー部には分析係やメディカル係のほか、企画係や広報係などがある。企画係はこれまでにペットボトルのキャップ集めなど実施した。部内で役職を持たせることで責任感を芽生えさせ、サッカーとは直接関係のないことでも成功体験を積ませることで、チームに良い空気が循環するという。
高校サッカーの頂点やJリーガー輩出、目標じゃない
チーム率いて今春で7年目に突入する。高校サッカーの頂点を目指したり、Jリーガーを輩出したりするだけが目標ではないという。「近江高サッカー部を、地域コミュニティーの中心になる総合スポーツクラブのようにしたい」と語る。グラウンドの脇にカフェやピラティス教室を設けて「サッカーをツールにして、地域の活性化につなげたい」。異色の履歴書に、これからも次々と新たな経験が加わりそうだ。
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前田監督の経歴や指導方法については、著書「サバイバルに生きていく」(ザ・ニュースパイラル出版)に詳しく紹介されている。