♪飲み過ぎたのは~あなたのせいよ~、の歌詞で知られる昭和の大ヒット曲「男と女のラブゲーム」を日野美歌とデュエットしていた男性歌手をご存じだろうか。あれから35年。愛知県岡崎市出身の葵司朗さん(74)は、いまなおマイクを握り、地元カラオケ教室のベテラン講師。しかし、現役への情熱は失っておらず、父子デュオでのヒットを夢見ている。
イントロを聴くと、ついつい歌いたくなる。デュエット曲の定番としてカラオケでお世話になった人は多いことだろう。しかし、当時は派手なドレス姿の日野美歌のインパクトが強すぎたせいか、葵さんの陰は薄かったような気がする。
「実は地味なサラリーマンの設定でスーツも地味めにしていたんですが、いきなり売れて余裕がなかったんですよ。華やかな場に慣れずに、自分を出せなかった。番組のコントに呼ばれてもニヤニヤしているだけ。当時を振り返ると悔しいです」
元々、「男と女のラブゲーム」は1986年に、さわりの部分が「タケダ胃腸薬」のCMソングとして世に出た。歌っていたのは武田鉄矢と芦川よしみ。この完全版を発売したいレコード会社が相次ぎ、最終的には13社が名乗りを挙げ、その中には有名な歌手同士の組み合わせもあった。
一番乗りしたのは徳間音工(徳間ジャパン)から出た日野美歌、葵司朗の組み合わせ。「どこの馬の骨だ」とまで言われるほど無名だった葵さんが抜てきされた背景には音楽一家で同郷の馬飼野兄弟との縁があった。「てんとう虫のサンバ」などで知られる兄・俊一さんに弟子入りしており、この名曲を作曲していたのが「傷だらけのローラ」などを手掛けた弟・康二さんだった。
「事務所に出入りしているとき、たまたま聴く機会があってね。その瞬間に”これは絶対売れる”と確信し”ぜひ、歌わせてください”とお願いしたんです」
それまでは売れない歌手だったため、どさ回りと馬飼野俊一さんの付き人のような日々。しかし、ここから運命が一変した。そのとき39歳。当時、徳間ジャパンにいた若手社員のがんばりもあって、レコードは売れ続け、3カ月後には歌番組へのオファーが殺到した。
「あいさつしても無視していた人たちが手のひらを返して、にじり寄ってきましたね」
生き馬の目を抜くような芸能界。葵さんにとって、そこで生きて行くには厚かましさと時間が足りなかったのかもしれない。
「競作でライバルは多く、演出で”何か変化を”ということで当時のピンクレディーの振り付けの先生から教えてもらって、ほぼぶっつけ本番でテレビ出演。もう、胃が痛くて一睡もできませんでしたよ」
そんな葵さんはコロンビア歌謡コンクールの東海地区で優勝。19歳で上京後、キングレコードから「豊橋の女」でデビューした。30歳をすぎたころ、一時は歌手を諦めかけ、成田空港の税関でアルバイトをしていたこともあるが、歌が恋しくなり、舞い戻った。
本名は杉浦隆。芸名の「葵」は徳川家康の生誕の地が岡崎だったことに由来する。「”名前が勝ちすぎている”と言われたこともありました」
今回、取材で待ち合わせたのは名鉄の東岡崎駅。初めて会う葵さんは”ちょいワルおやじ”風でとても74歳には見えなかった。聞けば、30歳年下の奥さんとの間に2男3女を授かり、上は20歳で下は8歳だという。まだまだ老け込むわけにはいかないようだ。
現在は愛知県内6カ所で歌謡講座「ゆめ歌カラオケ」の講師として歌う楽しさを伝えている。その一方、プライベートでは小型船舶1級免許を持ち、ヨガ、ダイビングなど多趣味で、特にカイトサーフィンにハマっているとのこと。現在は腕を上げているようだが、誤った情報が伝わり、あの人気テレビ番組「情熱大陸」から取材依頼があったときは、ほぼ素人同然だった。
「なのに、あやうく出演しそうになりました。スタッフと5回ほど打ち合わせして、結局ボツになりましたが…」
”幻”といえば、大ヒットした「男と女の-」も歌番組「ミュージック・フェア」だけは一度も歌ったことがなかったそうだ。
「提供がシオノギ製薬だったからでしょう。タケダ薬品のCMソングはさすがにまずい」
もちろん、いまでもすべてで現役だ。声にも自信がある。だからフェードアウトなんて、これぽっちも考えてない。
「人生100年時代。僕は100歳まで生きるつもり。菅原洋一さんも80歳を超えてなお、頑張っている。12歳の息子が歌がうまいので、父子デュオというアイデアを思いついた。これでもう一度ヒットを飛ばしたいんです」
楽しそうに夢を語ってくれた。