DNAレベルで備わっていたアスリートとしての本能。それが様々な経験を経て、一つの方向に集約されようとしている。「未来ある子達のために。一緒に夢を追っていきたい」。99年阪神タイガースドラフト1位、現在44歳の的場寛一さんは、人生の岐路に立ち意気込みを新たにしている。
的場さんはこの3月から、栄養補助食品、プロテインなどを扱う「DNS」の代理店を立ち上げた。前職はスポーツメーカーのアンダーアーマーに勤務していたが、同社の一部門だった「DNS」の子会社化に伴い自ら独立する道を選んだ。
アスリートのフィジカル面での意識に関しては、元々はアメフトからのフィードバックが大多数だった。だが、近年は考え方が進み、ほぼ全てのスポーツで身体作りの重要性が認められる世界となった。
そこで野球市場の拡大というテーマが挙がり「私に話をいただいて、代理店という形で個人としてやる形でスタートしました。どこかで独立志向はあったので」とタイミングが一致した。
まだスタート直後だが、関東圏を中心に営業に勤しんでいる。これまでの人間関係を活用し、自らの足で仕事を獲得する。自宅のある都内から往復5時間ほどかかる現場にも、電車、バス、徒歩で赴く。
高校、大学、社会人の野球チームを訪れては「個々の能力をアップさせる目的で身体作り、パフォーマンス向上のため、サプリメントの大切さを伝えさせてもらってます」と熱のこもった営業を行っている。
ここで生きてくるのが経験だ。的場さんは阪神タイガースで6年間の現役生活を経験。左膝の故障や右肩脱臼など、思い描いた現役生活ではなかった。走攻守3拍子揃った遊撃手として期待されながら悔しい思いをした。
「怪我に関しては、備えていれば防げたかもしれないなと今になって思います。大事な若い時期に膝を痛めて、下半身のトレーニングもできず時間がかかった、プロとしての意識がまだ低かった」
自らの苦い経験はもちろんだが、成功例も知っている。2004年から一緒にプレーした金本知憲氏(前阪神監督)には「怪我に関する意識、概念が変わりました。『肉離れは怪我じゃない』とおっしゃってた。考え方次第でその後の結果、未来が大きく変わるんだなと思った」と衝撃を受けた。身体作りへの意識の高かった金本のエピソードも、トレーニングとサプリメントの重要性を説く大きな武器となっている。
NPB引退後はトヨタ自動車野球部に所属し6年間プレー。元プロという色眼鏡で見られるリスクを、誠実な人柄やプレーへの姿勢で克服した。結果、若手から慕われる存在となり、チームを日本選手権連覇に導くなど活躍した。
野球部を引退後は同社人事部に配属され、社内イベントを担当するなど組織の中での役割を担った。周囲は東大や京大出身のエリートばかり。そんな環境で神経と睡眠時間を削りながら業務に取り組んだ。
「一つずつ、自分が成長しているなと感じられた。野球と一緒やなと思いました。今となったら本当にいい経験でした」
不安定なプロ野球の世界から、世界の大企業トヨタ社員への転身。安定した生活が約束されていた。ここで終わればハッピーエンドだが、そんなタイミングでアスリートのDNAがうずいた。
「スポーツに魂の根っこがあるのかな。『スポーツを通じて社会を豊かにする』という企業理念に惹かれて」と、アンダーアーマーに転職。収入面での条件は下がったが湧き出るチャレンジ精神を止められなかった。
そして現在だ。子供の頃からの夢だったタテジマのユニホーム、世界に名だたる大企業への就職、スポーツ事業大手を経て的場さんは独立の道を選んだ。
全ての経験が血肉となり、険しい道をあえて選ぶ精神性を身につけた。生活は楽ではないが悲観などしていない。「勇気はいりました。でも、やりがいはある。今はグッと屈んでる状態。そこからどれだけ高く飛べるか、自分自身楽しみです」。組み込まれたアスリートの本能。掴んだノウハウで未来を担う若きアスリートの道を切り拓く。自らのビジョンの具現化へ。的場さんが動き出した。
◆的場 寛一(まとば・かんいち)1977年6月17日生まれ。兵庫県尼崎市出身。愛知・弥富(現黎明)高から九州共立大を経て、1999年ドラフト1位(逆指名)で阪神入団。同年4月11日の巨人戦(甲子園)で初出場初スタメン。左膝手術や右肩の脱臼など度重なる故障により、05年シーズン後に戦力外通告を受けた。06年から社会人野球のトヨタ自動車でプレー。12年限りで現役引退。同社で勤務の後、アンダーアーマーでの勤務を経て2021年3月に独立。DNS代理店を立ち上げた。NPB通算24試合出場、打率・143、0本塁打、1打点。180センチ、72キロ。右投げ右打ち。