東日本大震災から10年。ヒップホップなどの音楽でつながった仲間らが草の根的に被災者と接してきた支援グループ「BOND & JUSTICE」の活動記録が「起こった事は最悪だけど、出会った事は最高。 HIPHOP 被災地支援隊 10 年間の軌跡」(東京キララ社)と題して書籍化された。グループのメンバーで著者の大土雅宏さんに現場で体感した支援の実態と対策、コロナ禍における今後のあり方などを聞いた。
大土さんは1980年、福島県南相馬市生まれ。高校卒業後、仙台市を拠点にイベント・オーガナイザー、ヒップホップグループのマネジャー兼プロデューサーを務めていた。震災当日は出張先の青森市にいた。被災した故郷・南相馬に物資を送ろうとしたが、原発事故でそれも困難に。当時の桜井勝延・南相馬市長に直接連絡を取り、話を聞くと「1番初めに届いた物資は棺桶だった」という実情に衝撃を受けたという。物資運搬用のトラックを市長に手配してもらい、自衛隊より早く物資を届けた。その後も、南相馬から、宮城県の気仙沼市、石巻市、さらに松島湾にある桂島へと支援を広げた。
炊き出しの合言葉は「石原軍団越えするべ!」。ただ、1週間で1万5000食を作ることより、週1回の炊き出しを避難所がなくなるまで継続するという方法を目指した。一度に大量の炊き出しをする「横」の支援ではなく、週1でも100食、200食と積み重ねるのが「縦」の支援だという。
大土さんは当サイトの取材に「人間関係を構築するために縦の支援がある。1週間で終わりではない。被災者と長く付き合うことで、被災した人が今度は支援する側になって北海道の被災地に行ったこともあった。石原軍団さんに対してはリスペクトを込めて『越えよう』ということですが、僕たちは細く長く縦の支援を続けようと。この10年間で15万食を提供しました」と振り返る。
その後も東北だけでなく、さまざまな土地で支援を続けた。昨年7月の豪雨災害に見舞われた熊本県人吉市には今年1月まで半年間滞在。初めてのコロナ禍での支援活を体験した。大土さんは「抗体検査や抗原検査は自腹で受けましたが、コロナ禍で県外から来てほしくないという声もあり、ボランティアも通常の5分の1までに減りました。今後、災害が起きた時、コロナとどう付き合いながら対応していくか。行政も含めて、これからの被災地支援には課題が残っています」と指摘する。
避難所生活の楽しみは「食」。それはコロナ禍でも変わらない。
大土さんは「駐車場に張ったテントをパーテーションで仕切り、対面せずに食べられるようにしたり、お寺で調理した食べ物を鍋に入れて持ち帰ってもらったり。また、避難所では便秘になる人が多い。温野菜のバイキングなどで食べる楽しみを味わいながら野菜を摂っていただいた。おばあちゃんは漬物が食べたいので、佐賀のカボスとごぼうのポン酢漬けとか、地元の食材を買わせてもらって被災地の生産者とつながることも大事にした」と話す。
記者は2011年6月に南相馬市で炊き出しに参加したことがあり、支援者が大量の牛肉を提供した。避難所にはさまざまな世代がいるものの、平日昼で、食べざかりの小中学生、高校生らは通学中で不在。働き盛りの人も仕事に出ていて、その場にいた大半が高齢者ということで、焼肉を食べ切れずに残してしまった。それは「マッチング」不足だったのかもしれない。
大土さんは1週間前から避難所の食事等をリサーチし、年齢層、その場所ごとの状況を把握し、必要な場所に必要な数を届けている。これを「マッチング」という。支援活動に慣れていない、これからという人にも役立つ「HOW TO 支援」と題した実用的なガイドも著書の巻末に付けた。
大土さんは「一番大事なことは『人の縁』。10年間、大事にしてきた『出来る事を出来るだけ』の思いを中心に続けていきたい。そして、今までご支援いただいた皆様や支えてくれた仲間たちに10年分の感謝を伝えたい」。今後も、グループ名の「BOND & JUSTICE」が意味する「絆と義」を貫く。