帽子のツバが黄色だと阪神タイガースは優勝できない。そんなジンクスのようなものがある。確かに1985年の日本一、2003年と05年のリーグ優勝時、ツバの色は黒だった。「ほんまに黄色のツバはアカンのか?」。そんな疑問に答えるカレンダーが2021年用として自主製作された。阪神の虎マークや寅さんの路線図アートで知られる鉄道設計技士・大森正樹さんの労作だ。大森さんに「実際のところ」をご教示いただいた。(文中選手名は敬称略)
大森さんは2005年からテーマを変えながら阪神カレンダーを非売品として作っている。21年版のテーマは「阪神の帽子別勝敗」。暦の下に、球団創設の1936年から2020年まで85年間の全公式戦1万761試合の戦績(5379勝5057敗325分け、勝率・515)が帽子と共に微細に記され、その「解読」には虫眼鏡を要する芸の細かさだ。
帽子のツバが初めて黄色になったのは74年。主砲の田淵幸一、エース・江夏豊、いぶし銀の藤田平や遠井吾郎らが脇を固め、後に「ミスター・タイガース」となる掛布雅之が千葉・習志野高校からドラフト6位で入団した年である。同年から81年までがホーム、ビジターとも黄色だった時代。この8年間、掛布が台頭し、ブリーデン、ラインバックの両外国人、飄々と個性を発揮した江本孟紀、ドラ1の名わき役・佐野仙好、クラウンから移籍した真弓明信、江川事件でのトレードで打倒巨人に燃えた小林繁、大型新人の岡田彰布らが躍動したが、76年の2位が最高で、78年には球団創設以来初の最下位に。その後、ホームのみで07―11年、18―20年が黄色のツバとなる。
カレンダーには黄色いツバの「あり」「なし」別の戦績が記されている。「黄色いツバあり」は1807試合876勝831敗100分け、勝率・513。「黄色いツバなし」は8954試合4503勝4226敗225分け、勝率・516だが、黄色が登場した74年以降という条件に合わせると、4566試合2099勝2357敗110分けで勝率・471と5割を切る。実は黄色いツバの方が成績は上回っている。
大森さんは「優勝した時が黒いツバなので、黄色より強いイメージがあるのかもしれませんが、黒には80年代後半から2000年前後までの暗黒時代が含まれており、それが大きい」と指摘。実際、87年から01年までの15年間で最下位は10回を数え、98年からは4年連続で最下位に沈んだ。その時期、帽子の色は暗黒時代を象徴するかのような「黒」。栄冠の記憶が鮮烈である半面、負の遺産があまりにも大きかったため、勝率は黄色のツバを下回る。
東京で生まれ育った大森さんは筋金入りの阪神ファン。そのきっかけは「黄色いツバの帽子」だった。「小学3年の75年頃から阪神ファンです。黄色いツバの帽子を見て、僕は12球団の中で一番かっこいいと思った。それが始まりですね。その時は関西の球団だとか、久しく優勝していないとかの情報はなく、黒と黄色の帽子のデザインがきっかけです」。まさに、今回のテーマは自らの「原点」であった。
「選手ではブレーク前夜の若虎・掛布が好きでした。投手では山本和行が渋かった。さらに渋いところでは、藤原仁、永尾、引間、池内など。小学校の時は神宮だけでしたが、高校になると後楽園や横浜に行き、高1の82年に旅行を兼ねて初めて甲子園の阪神戦を見た。小林が投げて、永尾のタイムリーで勝った試合でした。85年のリーグ優勝は吉田監督の胴上げを神宮で見ました。神宮3連戦の初戦で、実は次も、その次の試合もチケットは押さえていました。解説に来られていた田淵さんから優勝チケットにサインをいただきました。貴重な宝物です。大学1年の18歳、あの時は『生きててよかった』と思いました。掛布の同点本塁打が当たった神宮のレフトポールは野球遺産として永遠に取っておくべきですね(笑)」
東京に住んでいた少年期から青春時代の思い出を振り返る大森さん。関西の会社に就職後は、居住地と勤務地の間にある甲子園球場で試合観戦し、03年と05年のリーグ優勝も現場で喜びを分かち合った。猛虎愛のルーツとなった黄色いツバでの「初優勝」がかなう日は来るだろうか。21年シーズンの行方が、帽子と共に気になる。