プロ野球・元南海の樋口正蔵さん(79)をご存じだろうか。アマ球界の王道を歩み、常勝南海の優勝に何度も貢献。現役引退後は家業を継ぎ、同時にJRA馬主となった。「バンブトン」の冠名の方が名が通っているかもしれない。佐々木大魔神、三浦番長(元横浜、DeNA)といった“元プロ野球選手馬主”先駆けだ。
馬主席を訪ねると、にこやかな顔で迎えてくれた。すらりとした立ち姿でダンディー。さすが俊足好打の元プロ野球選手だけのことはある。
「家業を継ぐつもりだったので、ほんまはプロに行くつもりはなかったんですよ」
大阪府出身。浪商(現大体大浪商)では2年生だった1956年夏に左打ちの中堅手として甲子園に出場。準々決勝で優勝した平安(現・龍谷大平安)に敗れた。野球評論家の張本勲さんは1学年後輩だ。そこから法大に進み、外野手として3年春、4年秋と2度の優勝に貢献した。新山彰忠(南海)、室山皓之助(阪神)らが同期にあたる。
「3年春の優勝が24シーズンぶり。あそこから法政が強なった。われわれが、そのトップバッターですな」
4球団による自由競争の末、62年に南海入団。「当時のパ・リーグは大阪に3球団。移動が少なくて済むし、家から通えるのもいい」。契約金は1000万円。「大阪市内に土地付きの家が買えた」という。
1年目から1軍に定着し、2年目には打率・313で打撃ベストテン3位に。この年に刻んだ55本の内野安打はいまだに「イチローにも破られていない」(本人談)日本記録だ。
64年、阪神との日本シリーズでは全7試合に先発出場し、27打数9安打で日本一に貢献。その後も主に2番打者としてリーグ優勝の原動力となったが、通算1000試合を達成した71年を最後に10年間のプロ生活に別れを告げた。
「月給も良かったからプロでやりたかったが、家の事情で後を継ぐことになったんですよ」
32歳で樋口鐵工所(大阪市福島区)の社長へ。同時に先代から引き継ぎ馬主になった。
「厩舎には子どものころからよう遊びに行ってました。晩ごはんがおいしくてねぇ。馬主になるのは自然な流れだった」
やはり、樋口さんと言えば「バンブトン」の冠名だろう。これは14勝を挙げたニュージーランド産の快足牝馬ミスバンブトンから取ったもの。70年代から菊花賞2着のバンブトンオール、重賞7勝のバンブトンコートなどオールドファンには懐かしい名前ではないだろうか。現在は京都馬主協会の相談役でバンブトンハート1頭を所有している。
もうひとつの顔が実はすごい。樋口鐵工所は新幹線の車輪などの特殊なネジをつくっている技術集団。「資本を投入するよりもノウハウを蓄積し、顧客の信頼を高めることが大事」。その結果、競合3社の中で勝ち残り、唯一の存在になった。
「競馬場に毎週通うのがいいリフレッシュになってます。野球もたまに観に行きますよ。では、馬券買うてきますわ」
その背中は颯爽としていた。