80代のAさんは軽度のアルツハイマー型認知症で、家族に支えられながら生活しています。そんなAさんには悩みがありました。それは「お腹の調子が悪い」ことです。しかしこのことを家族に相談しても、排泄は失敗なくできていたため、家族はあまり気にしていませんでした。
ある日の夕方、Aさんは「ちょっとお腹が痛い」と食事を摂りませんでした。家族は「またいつものように体調が優れないのだろう」と様子を見ていました。その後、夜になると38度の発熱がありましたが、家族は「昨日出かけたから風邪を引いたのかもしれない。明日病院に行こう」と判断しました。
しかし明け方に家族がAさんを見に行くと、ぐったりしてほとんど反応がない状態だったのです。慌てて救急搬送したところ、診断は「絞扼性イレウス」。医師からは「今すぐ手術をしないと非常に危険な状態です」と告げられたのです。
ただの腹痛だと思っていたのに、なぜここまで重篤な状態まで進んでしまったのでしょうか。用賀きくち内科 肝臓・内視鏡クリニックの院長・菊池真大さんに話を聞きました。
認知症の場合、痛みや症状を正確に伝えることができず、重篤な状態に
―「絞扼性イレウス」とはどのような病気でしょうか。
腸閉塞(イレウス)の中でも特に危険度が高く、腸管の血流まで遮断されてしまう状態です。腸管が物理的に締め付けられ、内容物が通らない(閉塞)と同時に、腸管を栄養する血管も圧迫されて血流が途絶えた(絞扼)状態です。
放置した場合、腸管が壊死(腐る)してきます。壊死した腸管は、腸内細菌や毒素を防ぐ壁(粘膜バリア)が破れいわゆる“敗血症(全身性の炎症反応や臓器障害)”に進展しまい、命に関わる事態となります。緊急手術が必要なことが多く、早期発見が命を左右します。
―今回の場合、なぜ絞扼性腸閉塞がおこったのでしょうか。
まず、絞扼性腸閉塞が起こる原因は以下のようなことが考えられます。
1.ヘルニア嵌頓:腸管がヘルニア嚢に入り込み、出口が締め付けられて血流障害を起こす。鼠径ヘルニアなどが代表例。
2.腸捻転(腸軸捻転):腸が自らの軸でねじれることで、腸管と血管が締め付けられる。
3.癒着性索状物による絞扼:手術後や炎症後にできた癒着が腸管を締め付ける。癒着性イレウスの一部が絞扼性に進展することもある。
4.腸重積:腸の一部が隣の腸管に入り込むことで、血流障害を伴う閉塞が起こる。
5.腫瘍による圧迫:腸管外の腫瘍が腸を圧迫し、血流障害を引き起こすことがある。
Aさんが「お腹の調子が悪い」と日常的に訴えていたことから、過去の手術歴や炎症による癒着性索状物が腸管に影響していた可能性があります。
癒着は長い時間をかけて腸を引っ張り、ある日突然腸管を締め付けて血流を遮断する絞扼性に進展することがあります。また、鼠径部のヘルニアが目立たず、痛みも曖昧なことがあります。Aさんが「ちょっとお腹が痛い」と言った時点で、腸がヘルニア嚢に入り込み、出口が締め付けられていた可能性もあります。
腸が自らの軸でねじれる「腸捻転」は、食事や体位の変化、腸の動きの異常などで突然起こることがあります。Aさんが食事を拒んだ夕方、腸のねじれが始まり、夜には血流障害が進行していた可能性も否定できません。
―Aさんの場合、なぜ発見が遅れてしまったのでしょうか。
認知症の場合、痛みや症状を正確に伝えることができず、重篤な状態になって発見されることが多いといえます。
① 痛みの訴えが曖昧、または消失する
認知症の方は、痛みを「痛い」と言葉で表現できないことがあります。代わりに、落ち着きがなくなる、表情が険しくなる、食事を拒むなど、非言語的なサインが現れます。
② 症状が“いつもの不調”と見分けがつきにくい
「食べない」「ぼんやりしている」「微熱がある」などは、認知症の方の日常にも見られるため、腸閉塞の初期症状が見逃されやすくなります。
③ 排泄の変化が把握されにくい
排泄が自立している、または介助がルーチン化している場合、便秘や排ガス停止といった腸閉塞の兆候が見過ごされることがあります。
④ 行動変化が“認知症の進行”と誤解される
ぐったりしている、反応が鈍い、寝てばかりいる――これらは腸閉塞による重篤なサインかもしれませんが、認知症の進行と誤認されることがあります。
―ほかにも、認知症の影響で発見が遅れる疾患はありますか。
1.尿路感染症(UTI)
発熱や排尿痛が訴えられず、「ぼんやりしている」「急に元気がない」といった精神的変化だけが現れることがあります。敗血症に進展することもあります。
2. 肺炎(特に誤嚥性肺炎)
咳や呼吸困難の訴えが乏しく、「食べない」「うとうとしている」「微熱が続く」といった非典型的な症状で見逃されがちです。
3. 心筋梗塞・狭心症
胸痛を訴えられず、「不穏」「落ち着かない」「顔色が悪い」などの行動変化のみで進行することがあります。
4. 骨折(特に大腿骨頸部骨折)
転倒後も痛みの訴えが弱く、「動かなくなった」「座り方が変わった」などの微細な変化からしか気づけないことがあります。
5. 低血糖・電解質異常
「急にぼんやり」「反応が鈍い」「食欲がない」など、認知症の進行と誤認されやすい症状で現れます。
6. 脳卒中(特に小さな梗塞)
言語障害や麻痺が軽度な場合、「いつもよりぼんやりしている」「食事が進まない」などの変化しか見えず、見逃されることがあります。
―認知症患者の疾患にいち早く気付くためには、家族はどのようなフォローをすれば良いでしょうか。
認知症の方は「身体の異変を言葉にできない」「いつもの様子との違いが見えにくい」という特性があるため、発見が遅れやすい疾患がいくつも存在します。在宅療養で、家族が異変にいち早く気付くためには、以下のような点に注視することが大切です。
1. 食欲の変化
• 急に食べなくなった、好きなものを拒む → 腸の不調のサイン
2. 腹部の膨満感
• お腹が張っている、触ると嫌がる → 腸閉塞の初期兆候
3. 排便・排ガスの停止
• 便が出ていない、ガスが出ない → 機械的閉塞の可能性
4. 発熱・頻脈・倦怠感
• 微熱でも注意。絞扼性や敗血症の前兆かもしれない
5. 表情・動作の変化
• ぼんやりしている、動きが鈍い、いつもと違う座り方 → 痛みや不快感の非言語的表現
認知症の方の体調の変化は、言葉ではなく、日々の小さな仕草や表情の中に現れます。
でも、その変化はとてもささやかで、忙しい日々の中では見過ごしてしまうこともあります。認知症の方の“沈黙の声”に、そっと耳を澄ませることが、家族にできるいちばんやさしい医療のかたちかもしれません。
◆菊池真大(きくち・まさひろ) 慶應義塾大学医学部卒業。日本消化器病学会専門医・指導医。慶應義塾大学消化器内科専修医として勤務したのち、米国ペンシルバニア大学にて研究員を勤める。現在は用賀きくち内科 肝臓・内視鏡クリニックの院長として、数々のメディア出演を行っている。