阪神・淡路大震災(平成7年兵庫県南部地震)から、2025年1月17日で30年となります。
日本気象協会では、当時の関西本部神戸支店などで建物被害を受けたほか、被災自治体への気象情報端末の無償提供などの対応を行いました。
日本の近代史を大きく変えた大震災から30年という節目を迎え、震災を実際に経験した職員や、後に入社した若手職員に、当時の状況や実際に体験して感じたこと、震災の教訓、今後の防災のあり方などについて話を聞きました。
阪神・淡路大震災(平成7年兵庫県南部地震)の概要
1995年1月17日(火)午前5時46分、近畿地方を大きな揺れが襲いました。
淡路島北部を震源とするマグニチュード7.3、国内初となる最大震度7の地震となったこの大地震は、後に気象庁によって「平成7年(1995年)兵庫県南部地震」と名付けられました。
阪神地域を中心に、甚大な人的被害・物的被害が生じ、総務省消防庁の統計によると、この地震による被害は、死者6434名、行方不明3名、負傷者43792名、住家全壊104906棟、住家半壊144274棟、全半焼7132棟にのぼりました。
櫻井康博 「防災活動の推進と充実に努め大地震へ備えられる社会へ」
震災当時、関西本部気象情報部情報開発課に所属していました。
当時私は大阪市南部に住んでいましたが、棚の上の瓶が落ちた程度で、電気・ガス・水道などのライフラインに大きな被害はありませんでした。
地震発生後すぐに職場へ向かおうとしましたが、地下鉄は止まり、タクシー乗り場は人の山。加えて、駅前は水道管が破裂したようで水浸し・・・という状況だったことを覚えています。
その後なんとかタクシーを捕まえ、職場付近まで到着しましたが、大通りの交差点では信号が停止し、少し路地に入ると、古い民家が多いためか路上に屋根瓦が散乱していました。ふと耳にしたラジオからは、神戸で震度6の情報はあるものの、阪神地区の状況はうまく掴めない・・・という状況でした。朝7時前に会社に到着した後は、社内の安否確認やシステム稼働状況の確認に延々と追われました。安否確認を進める中で、神戸エリアの被害状況が徐々に明らかになっていき、この地震の被害の大きさを実感したことを覚えています。
結局、関西本部職員全員の安否が確認できたのは、地震発生から2日経った1月19日のことでした。
以降は、建物被害を受けた当時の神戸支部への緊急物資輸送対応や、翌2月には大きな被害を受けた阪神地区自治体(芦屋市・西宮市・尼崎市・神戸市・宝塚市など)に、当面の間、気象情報端末の無償提供を開始するなどの対応を行いました。
日本の面積は世界の0.25%である一方で、マグニチュード6以上の地震のうち約2割は日本周辺で発生しています。日本に居住している限り、どこでも大きな地震災害に見舞われることを想定しなくてはなりません。
自らがローリングストックなど地震への備えを実践するだけでなく、民間気象会社の一員としてtenki.jpの「知る防災」活動の推進や、減災に有用となる気象防災情報サービスの拡充に努めていきたいと考えています。
山下啓一 「各地の赴任先で大地震に遭遇 その教訓を"命を守る"ことにつなげられれば」
震災当時、私は日本気象協会関西本部の調査部海象課に入って2年目の年でした。あの日のことは今でも鮮明に覚えています。
まだ若く、普段は目覚ましでもなかなか起きなかった私が、地震の揺れで飛び起きました。急いで駅へ向かうと、地下鉄は止まっており、近鉄電車が大混乱の中でわずかながら動いている状況。そして近所の公衆電話は長蛇の列。駅へ入ることもできず、仕方なく一旦帰宅しました。
まだ携帯電話を持っていませんでしたので、自宅の固定電話で何度か実家へかけるもつながらず、お昼前にやっとつながり、安否を伝えることができました。
その後、会社へも電話がつながり、出社要請を受けました。普段の通勤ルートは全く異なる道を経てお昼過ぎ、ようやく会社に辿り着きました。その日の作業は、ひたすら社内の安否確認でした。
あの時見た光景で特に衝撃的だったのは、1階部分が押しつぶされたような建物が街のあちこちにあったことです。震災から1~2か月経って、初めて神戸の街に降りた時に感じた、あの焦げた臭いも忘れられません。
震災の経験から、その後の転居では1階を避けるようになりましたし、地震が起きた時は真っ先に火の始末を確認するようになりました。高層階にいる時は、下層階の様子を特に気にかけるようにもなりました。
地元・鹿児島では、地震を感じることが少なかったこともあり、防災意識が十分とは言えなかったと思います。ただ、阪神・淡路大震災を経験してからは、ガラリと変わりました。教訓として忘れないために、あの時の新聞は今でも大切に保管しています。
その後も転勤先の各地で大きな地震を経験しました。芸予地震、新潟県中越地震、東日本大震災、熊本地震などです。
これだけ多くの地震災害を経験して強く感じるのは、大地震はいつどこで起きてもおかしくないということです。
職業柄、防災とは切っても切り離せませんので、これまでの経験を様々な業務に活かして、一人でも多くの方の防災意識を高めることができればと思います。そして最終的に、かけがえのない「命を守る」ことにつながれば、これほど嬉しいことはありません。
松井渉 「地震学で学んだ経験と教訓を今後の備えに」
阪神・淡路大震災が起きた当時、私は大学の理学部3回生でした。
地震直前の前年12月に、来年度から地震学の研究室に所属することが決まったばかりのタイミングでした。
地震当日、17日の朝は京都にいましたが、強い揺れで飛び起きました。
幸いにも、私の身の回りで人的被害はありませんでしたが、テレビで報じられる神戸などの様子に愕然としたほか、神戸に友人がいましたので、電話で無事の連絡がくるまで心配な日々が続きました。
あの時、ちょうど学んでいた地震学の講義を今でもはっきり覚えています。
「関西は地震が少ない」というのが当時の一般的な認識でしたが、実際にはそうではないということです。前回の南海トラフ地震から約半世紀が経過していて、西南日本は地震の活動期に入っていくだろうということも。そんな知識を持っていた矢先に、実際に大地震が起きてしまったわけです。
震災後、社会全体で防災への意識が高まっていくのを感じました。私自身も、その前年に気象予報士試験に合格していたこともあって、防災に関わる仕事をしたいという思いが強くなっていきました。そんな思いが今の仕事につながっています。
今は福岡に住んでいるのですが、ここにも街の中心部に警固断層という活断層が通っています。この断層が活動すると、マグニチュード7クラスの地震が想定されていて、阪神・淡路大震災と同じような大きな被害が出る可能性があります。だからこそ、食料や水の備蓄など、自分でできる対策はしっかりとしているつもりです。
これから起こるかもしれない南海トラフ巨大地震や、予測の難しい内陸直下型地震。地震学を学び、震災も経験した者として、地震防災の重要性を伝える活動に、仕事を通じてもっと関わっていきたいと考えています。あの日の経験と教訓を、防災への備えという形で活かしていきたいですね。
後藤真里奈 「防災教育の経験を通して記憶と教訓を次の世代へ」
私は1995年の阪神・淡路大震災を直接経験していません。ただ、生まれてすぐに兵庫県西宮市に移り住み、幼少期を過ごしました。震災の傷跡が残る街で育った私にとって、防災は子どもの頃から身近なものでした。
小学生の時には「越木岩防災の日」という行事がありました。毎年1月に学校中が防災一色になって、地域の自主防災会や自治会の皆さんのほか、自衛隊や消防隊、救急隊の方々も一緒に本格的な防災訓練を行います。今でも覚えているのは、訓練に参加される大人の真剣な表情です。きっと、震災の教訓を私たち子どもたちに確実に伝えたいという強い思いがあったからなのだろう…と、今改めて強く思います。
高校生の時には、「震災復興における音楽の効果」と題して卒業研究を行いました。
震災復興に関連する合唱曲が持つ共通の特徴などを知ることができ、この研究を通じて、音楽が持つ力、特に心の復興に果たす役割について深く考えることができました。
大学生の時には、実際に大阪府北部地震を経験しました。高槻市で震度6弱の揺れに襲われ、自宅も軽い被害を受けました。幸い、私自身にケガはありませんでしたが、それまで防災教育で学んできたことの重要性を、身をもって実感することになりました。
その後、就職活動期に入り、自分の経験を振り返っているうちに気づきました。小さい頃から防災のことを考え続けてきた私にとって、防災に関わる仕事に就くのは、とても自然な流れだったのだと。そんな思いもあって、今は日本気象協会で働いています。
震災を直接経験していない世代の私たちにできることは、体験者の方々の言葉に真摯に耳を傾け、その記憶と教訓をしっかりと受け継いでいくことだと思います。西宮で幼少期を過ごし、今は防災の仕事に携わる者として、震災の記憶を風化させることなく、次の世代に伝えていく。それが私の使命だと感じています。
阪神・淡路大震災から30年。被害に遭われた皆さまには、心よりお見舞い申し上げます。
tenki.jpは、これからも皆さまのお役に立てるよう、便利かつ詳しい気象・防災情報をお届けしてまいります。