昭和の伝説フィンガー5 Vo.玉元正男が語る秘話 米統治の沖縄から東京へ乗り込むも試練の日々 阿久悠、都倉俊一のコンビに救われた 「オッケー、僕たちに彼らの曲を作らせてくれ」

中将 タカノリ 中将 タカノリ

先日、友人の紹介で東京・町屋の「いちゃりBar」というミュージックバーを訪れた。

沖縄の「いちゃりばちょーでー(一度会ったら皆兄弟)」という言葉にちなんだ店名のようだが、なんとカウンターに立っていたのはフィンガー5でベース・ボーカルを担当した玉元正男さん(65歳)。気取りのない快活な方で、おしゃべりにカラオケにと楽しい時間を過ごすことができた。

『個人授業』(1973)、『恋のダイヤル6700』(1973)、『学園天国』(1974)…。1970年代に数々の大ヒットを世に放ったフィンガー5。まだアメリカ統治下だった時代の沖縄から本土に渡り、そのポップな音楽性とダンスパフォーマンスでトップスターに駆けあがった日本芸能史上の伝説的グループだ。兄妹の三男で10代の大半を活動に費やした正男さんはどんな思いで栄光の日々を過ごしたのか。そしてグループはなぜ活動停止に至ったのか。後日、あらためて店を訪れお話を聞いた。

ーーお父様は沖縄で「Aサインバー」と呼ばれる米兵向けのバーを経営されていたんですね。

正男:はい、沖縄本島の具志川市(現・うるま市)というところでやってました。他の兄妹は親戚に預けられていたんだけど、僕は小さい時に腎臓の病気をして目が離せないということで両親と一緒にお店で過ごすことが多かったです。

3歳にしてツイスト大会で優勝

ーー音楽との出会いもAサインバーだったんですか?

正男:そうですね。1階がお店で2階が休憩所。初めはホステスさんたちに面倒見てもらってたんだけど、親の顔が見たくて1階に行くじゃないですか。すると米兵たちがロックやR&Bに合わせてツイストを踊ってる。僕もすぐに影響されましたね。3歳の時に那覇で開催されたツイスト大会で優勝してるんですよ。

ーー早熟!兄妹で音楽活動をされたきっかけは?

正男:初めは僕だけだったけど、そのうち他の兄妹もお店に来るようになるんです。みんな音楽が大好きになったのでバンドでもやろうじゃないかと。それで親父が楽器を買ってくれて、長男の一夫、次男の光男と3人でオールブラザーズを結成。後に紫(※70年代を代表するハードロックバンド)でデビューするChibi(宮永英一)さんに演奏を教わって、初めはベンチャーズみたいなインストを、晃や妙子が合流してからは歌モノもやるようになりました。

ーー反響はいかがでしたか?

正男:すごい反響でした。僕が6、7歳、長男にしてもまだ小学校高学年くらい。そんな年齢でエレキを弾くバンドなんていなかったですから。親父の店で演奏していたのがすぐ噂になり、他のAサインバーからもオファーがきたり、バンドコンテストにも出場するようになりました。

「沖縄だけじゃもったいないよね」と東京を意識

ーー東京に移住されたきっかけは?

正男:ある時、地元テレビ局のコンテストで優勝したんですが、そこのプロデューサーに「沖縄だけじゃもったいないよね」と言われ東京行きを意識するようになったんです。親父はしつけにはとても厳しかったけど、子供たちが真剣にやりたいと言ったことに対しては決してNOを言わない人。僕たちの夢をかなえるために商売をたたんで、ビザ取得のため奄美大島を経て1968年に東京に移住することになりました。

ーーまだ本土に行くのにパスポートがいる時代。すごい決断です。東京の印象は?

正男:みんな歩くスピードが早いなと。初めは走ってるのかと思ってました(笑)。すごい所に来たなという戸惑いはあったけど、家族一緒に来てるから寂しくはありませんでしたね。

ーー東京に来た時点でデビューはもう決まっていたのでしょうか?

正男:何も決まっていません。頼るような知り合いもいないので、初めは母が電話で各地の米軍キャンプに電話して仕事を取ってくれました。

レパートリーの洋楽がまったくウケなかった

ーー東京ではまったく一からのスタートだったんですね。

正男:はい。そのうち遊園地やデパートのイベントなど活動の場が広がっていきましたが、そこに来る子供たちには僕たちのレパートリーだった洋楽がまったくウケない。あわててピンキーとキラーズの『恋の季節』(1968)や由紀さおりさんの『夜明けのスキャット』(1969)のような歌謡曲をレパートリーに加えました。お客さんの変化に試行錯誤はありましたが、そこでキングレコードの関係者に声をかけられデビューが決まるんです。僕たちは子供すぎて全然その意味がわかってなかったけど(笑)。

ーー「ベイビー・ブラザーズ」に名前を変えてデビュー曲は『私の恋人さん』(1970)。正男さんが歌詞、一夫さんが作・編曲を担当されたということですが、なんだか後期ビートルズを彷彿するサウンドですね。

正男:サウンドはそんな感じですよね。でもメロディーは子供っぽい歌謡曲。レコード会社が「自分たちで作っていいよ」と言ってくれて初めての楽曲制作に取り組んだんですが、だからと言って洋楽みたいな曲にするわけにもいかない。妥協せざるを得ないことは多々ありました。

ーーやっぱり音楽的な制約は大きかったんですね。

正男:はい。その後もキングレコードから数枚出しましたけど、結局子供っぽい曲しかやらせてもらえませんでした。そのレコードも結局売れないし、自分たちが好きな音楽も出来ないのでストレスが溜まってしまい、沖縄が日本に復帰した1972年の後半には「もう沖縄に帰ろうか」というムードになっていました。でも当時、担当ディレクターのお弟子さんにアメリカ音楽が大好きな井岸義測という人がいて、僕たちのことをとても買ってくれていたんです。「フィンガー5」というグループ名も、付けたのは母親ですが、きっかけは彼が「もう“ベイビー”という年じゃないから」と改名を提案してくれたからです。

1972年後半、「沖縄に帰ろうか」というムードに

ーー井岸さんと言えば1972年末にデビューしたキャロルも担当していますね。

正男:はい、彼は先にフィリップスに移籍していて、キャロルが売れて「他にもいいグループはいないか?」となった時に僕たちを推薦してくれたんですね。実はその時もう沖縄に帰るつもりで家財道具も送った後だったんですが、楽器だけは手元にあったのでオーディションへ。審査員の大人たちに囲まれる中、悔いが残らないように歌謡曲じゃなくて大好きだったトム・ジョーンズだったかローリング・ストーンズだかの曲を演奏しました。

ーー反応はいかがでしたか?

正男:「どうせ内地の大人たちにはわからない」と思いつつ演奏していたんですが、1コーラスもやらないうちに「オッケー、僕たちに彼らの曲を作らせてくれ」という声が聞こえました。僕たちを見つめていたのはこの後『個人授業』を作った阿久悠先生と都倉俊一先生。と言っても当時の僕たちには誰だかわからなかったんですが、僕たちの洋楽的なセンスに気付いてくれたお二人のおかげで僕たちは新境地で活動を続けることができるようになったんです。

◇ ◇

幼くして栄光をつかんだイメージのあるフィンガー5だが、その道のりは意外にも険しいものだったようだ。続く中編では『個人授業』の大ヒット以降、芸能界の頂点へと駆け上がる正男さんたち兄妹の活躍を紹介したい。

玉元正男(たまもと・まさお)プロフィール
歌手。1959年2月2日、沖縄県具志川市(現うるま市)生まれ。幼少期から兄妹でバンド活動を始め、ベース・ボーカルを担当。1970年にベイビー・ブラザーズとしてデビュー。途中フィンガー5に改名し『個人授業』、『恋のダイヤル6700』、『学園天国』など数々のヒット曲を生み出す。1978年のグループ活動停止後も不動産業、内装業などと並行し音楽活動を継続。現在は東京都荒川区町屋でミュージックバー「いちゃりBar」を経営するかたわら定期的にライブ活動をおこなっている。

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