母を亡くした26歳の女性が、自らの経験を基に、遺品を服飾雑貨にリメークする事業を始めた。「故人との思い出をコーデする」をモットーに、形を変えた遺品を通じて、今は会えなくなった大切な人と、一緒に過ごしているような「お守り」になればという願いを込める。
京都で暮らすMARUさんにとって、母は「陽気で、明るくて、優しい人」で、何より大好きだった。
母は、自営業の夫の仕事を手伝い、育児や自らの父の介護と、忙しい日常に追われた。そんな中でも、自分のことは後回し。子どもたちを気遣った。裕福ではなくて、あまり口にできなかったホールケーキをMARUさんの誕生日にこっそり買い、父に怒られていたこと。自由になるお金ができても、自身の新しい服は買わず、子どもたちのために使っていたこと。それでも笑顔を絶やさなかった姿が、MARUさんの脳裏に刻まれている。
いつしか母は、咳をし出すと止まらなくなっていた。重い腰を上げてかかりつけの内科に行き、咳止めの薬を処方されたが、体調は戻らない。紹介状を持って大きな病院に行き、やっと理由がわかった。末期の乳がん。余命は半年と宣告された。
当時大学生だったMARUさんにとって、親に死期が迫っていることは、到底受け入れられなかった。入退院を繰り返し、時折自宅に戻っていても、ベッドで眠る母への思いは、近くにいてくれることへの安心感より、このまま起きないのではないかという恐怖が勝った。
ただ、一番つらいはずの母は、変わらなかった。
入院中、少しでも役に立ちたかったMARUさんが「何かほしいもの、ある?」と聞くと、珍しく「イチゴ大福」と返ってきたことがある。急いで買って戻ると、「一緒に食べよう」と、MARUさんにも渡した。看病を続けてくれる娘が優先だった。
半年の余命宣告を乗り越えたが、病魔はその手を緩めなかった。がんが見つかって2年がたった2019年10月。MARUさんが「大好きだよ」と言うと、病床の母は「うん」と返してくれた。それが親子の最後の会話。母は54歳で息を引き取った。
母のためにもっと何かできたのではという後悔で、MARUさんはふさぎこんだ。笑っている顔ばかりを思い出し、涙は不意にこぼれた。寂しさ、つらさ。理由は分からないが、泣かない日はなかった。
そんな日々の支えになったのが、遺骨の一部を納められるネックレス。数万円と少し高額だったけれど、いつもそばにいてほしくて、手に入れた。片時も手放さず、気づけば手でさわる。つらいことがあっても、「大好きだったお母さんにとって、私は宝物なんだから」と、少し気が楽になるお守りになった。「生きていけるような気がした」
趣味で手がけていたリメークを通じて、同じような境遇の人の力になりたいと、大切な人の遺品を服飾雑貨に活用する事業を、昨年の母の命日に始めた。
リメークの費用は無料。経費や運営費は、個人や法人からの支援費でまかなう。遺族が、お金を気にせずに依頼できるようにするためだ。代わりに支援者には作業過程や、依頼者と遺品にまつわる物語などを発信し、事業への共感を広げる。
制作は、依頼者と相談しながら進める。故人との思い出話を聞きながら、何を作るか、どの部分を使うかを決め、手芸作家らに仕上げてもらう。
最初の依頼者となった京都市北区のパート女性(53)は、30年ほど前に亡くなった母が身に着けていた着物で、昨年12月にスマホポーチを作った。
リメークに使ったのは、普段着にしていたかすりの着物。女性が子供のころ、台所に立ち、幼稚園にお迎えに来てくれる時に身に着けていたという。スマホポーチを肩から掛けていると、日常的にかすりの柄が視野に入る。「母がすぐ近くにいてくれるような安心感を覚えた。とてもうれしかった」と仕事中も肌身離さず身に着けている。
MARUさんは、今も前を向いて過ごせるようになったとは考えられない。「同じ境遇の人のために生きることが、自分の生きる意味にもなる」と、最愛の母がいない日々を懸命に過ごす。「リメークした遺品を手にした人が、少しでも前を向けるきっかけになれば」と願う。
申し込みや応募条件などは、MARUさんが立ち上げた会社「fmpty」(ファンプティー)のサイトから。制作は抽せんで決定する。月額500円からの支援者も募っている。