2023年11月中旬、紅葉客でにぎわう京都市北区。上賀茂神社からほど近く、鴨川のほとりに美容室「La Cocon ikuri」がある。野々村好弘さん(41)とかおりさん(49)夫妻が経営するアットホームな店だ。
記者が初めてこの店を訪れたのは3年前の2月。ドアを開けると、受付の後ろから大きな白い犬がゆっくりと現れ、出迎えてくれた。雌の雑種犬で、名前はシロ。頭をなでると尻尾を振って喜んだ。看板犬のシロは、美容室の客からも愛されていた。
そんなシロはもういない。2023年11月7日、15歳で天国に旅立った。
シロが美容室にやってきたのは19年の暮れのこと。かおりさんは、SNSでこんな投稿を目にした。
「8年間、大切な血液を提供して、数えきれないくらいたくさんの命を救ったヒーローです。誰か幸せにしてくれませんか?」
アメリカ出身で来日後ボランティアに従事していたケリー・オコーナーさん(59)からのメッセージだった。オコーナーさんは被災地でペットが置かれる環境を目の当たりにし、動物医療を学ぶため東京の動物病院に勤めていた。
シロは、その動物病院で「供血犬」として飼われていた。病気やケガをした動物に輸血するため、血液を提供する犬のことだ。献血のために供血犬を飼っている動物病院は少なくない。
だが、シロが置かれた環境は劣悪だった。供血犬は1歳以上8歳未満、体重25キロ以上が推奨されているが、当時のシロは11歳で、体重は12キロしかなかった。病院の地下室のケージに入れられ、床には新聞紙が敷かれただけ。汚物まみれの状態だった。
シロは「僧帽弁閉鎖不全症」という心臓疾患を抱えていた。心臓の中の弁が閉じず、心臓から全身に送られるはずの血液が逆流してしまう病気だ。
オコーナーさんは、シロを地下室から救いだそうと決意。副院長に頼み込んで、SNSで引き取り手を捜すことにした。シロの置かれた状況を投稿すると、瞬く間に拡散した。
だが、膨大な医療費がこれから必要になる可能性がある。危険な状態なので日中ずっと留守番させるわけにもいかない。里親希望者は1人、また1人と減っていった。美容室を経営する野々村さん一家が条件に合った。
3歳から11歳までの8年間を地下室で過ごしたシロ。地下室には他にも5匹の犬がいた。
そのうちの1匹がオスのザクロ。飼い主に虐待された後、シロと同じ施設に預けられ、動物病院にやって来た。
シロが野々村さんたちに引き取られた後、ザクロの容体が急変した。血小板の数が減少する病気にかかり、多臓器不全を起こしていることが分かった。
オコーナーさんが助けを求め、野々村さんたちはザクロも引き取ることを決めた。シロも車に乗せて東京に向かう。動物病院に着く10分前、ザクロを発作が襲った。
「到着すると、目が見開かれ、瞬きもできない状態でした」(かおりさん)
ずっと一緒だったシロも見守る中、ザクロはほどなく息を引き取った。
ザクロの分までシロに愛情を注ごう。野々村さん夫妻や子どもたちの愛情をたっぷりと受けながら、シロは穏やかな日々を過ごす。
そんなある日、散歩中のシロが突然倒れることがあった。心臓の病はずっとシロをむしばんでいたのだ。
心臓が2倍近くまで肥大化し、肺を圧迫していた。高齢のため、手術もできない。治療を受け、一命を取り留めたものの、薬を飲むのをやめると数日で死んでしまう状態だった。
だが、週1回ほどの通院で、検査や薬に数万円かかるようになった。野々村さん夫妻はクラウドファンディングでシロの境遇を伝え、寄付を呼びかけることにした。
支援の輪はみるみる広がり、目標の18万円を大幅に超える480万円が集まった。「うちの子も同じ病気だった」「手術した方がいい」。みんながシロの幸せを望んでいた。
愛犬を失い、お年玉を寄付したという小学3年の男の子もいた。「犬が好きなので、シロちゃんに長生きしてほしくて寄付します」
野々村さんたちは、手術を決断する。その年の5月、横浜市の医療センターを訪れた。オコーナーさんも駆け付け、シロと再会した。
6時間に及ぶ大手術だった。退院しても安心はできない。オコーナーさんの家で10日間過ごした後、京都に戻った。シロから苦しそうな表情がなくなったのが、野々村さん夫妻にも分かった。
「目に元気が出て、走り回れるようにもなった。背中を押して支援してくれた方々には感謝しかありません」(好弘さん)
昨夏、家族が増えた。京都市内の飲食店が、生まれたての子犬の引き取り手を捜していることを知り、野々村さんたちは、子犬と一緒だとシロも元気になると考えた。
シロは15歳になっていた。人間で言えば80代。平均寿命を過ぎ、半年ごとに受ける定期健診で、腎機能に異常が出始めていた。
雌のラヴは、野々村さんの家に来た時点で生後2カ月。元気があり余る月齢だ。子育て経験のないシロは当初、たじろいだ様子だった。
それもわずかな間。すぐにシロに変化があった。
「積極的に人に寄っていくラヴを見て、ちょっと自己主張するようになりました。それまで散歩に行きたいとか言わなかったのに」(かおりさん)
シロは、子どもたちとラヴが遊ぶのを離れて見守っていた。まるで本当の母親のように。
シロの体調は少しずつ悪化し、11月に入ると歩くこともままならなくなった。水をよく飲むようになった。11月6日夕方、病院に行くと、腎不全に加え、心臓に血栓があると診断された。
11月7日、美容室は3連休の初日だった。幼い子どもたちを学校に見送り、夫妻は交代でずっとシロをなでた。シロをかわいがってくれた友人たちも集まってきた。
シロは引きつけを起こし、苦しそうに見えた。そして最期の時がやってきた。午後3時35分。手術を受けた心臓は、呼吸が止まった後も動いていた。
「みんなにみとられて幸せだったと思う。心臓手術の前ももしかしたらと思ったし、何度か覚悟するタイミングがあった。大往生してくれました」(好弘さん)
シロは、供血犬の存在を広く世の中に知らせた。
ペットを巡る問題を積極的に発信している動物病院「まねき猫ホスピタル」(大阪府)の石井万寿美院長(63)は、「ペットも家族の一員だという人が増え、動物医療も進歩した。その血がどうなっているのか、もっと知ってもらいたい」と話す。
供血犬や供血猫を飼っている動物病院でも、大切に育てているところがほとんどだ。輸血が必要になった時にSNSでドナーを呼びかけると、応じてくれる人も増えた。
「日本には血液バンクや人工血液がないので、供血犬やドナーの存在は必要になる。譲り合いの気持ちを持った飼い主が多いことは本当にありがたい」(石井さん)
シロが残したものは何だと思うか―。オコーナーさんに聞くと、こう返ってきた。
「供血犬という言葉を大勢の人に教えてくれた。たくさんの動物が救われたと思います」
シロは、動物病院で飼われるまでは虐待を受けていたとみられる。そして、供血犬になってからも劣悪な環境を生きた。それでもオコーナーさんの記憶に刻まれているのは、野々村さん一家と幸せそうに暮らすシロの姿だ。
「たった4年間だけど、それまでの苦労を忘れて家族と過ごせました。天国でも幸せにしているに違いありません」(オコーナーさん)
かおりさんには、シロが爪を立てて店内を歩いているような音が今も聞こえる。
「大きな存在でした。お年寄りになって介護が必要になって、人間と同じだなと思った。人間も動物も平等なんだなって」(かおりさん)
ラヴは寂しそうにベッドに残ったシロのにおいをかいでいるという。野々村さん夫妻は、ラヴが大きくなったらドナー登録するつもりだ。
「シロは家族みんなの視野を広げてくれた。動物と人間が暮らすこと、今まで考えなかったことを考えるようになりました」(好弘さん)
犬と人が共に生きる社会を支えている存在を、ラヴと一緒に伝え続けていく。シロとザクロの写真を抱えてそう誓った。