家事の時短が進んだけど、時間の余裕はできた? 「クロノス的時間」と「カイロス的時間」

北御門 孝 北御門 孝

「時間」には「クロノス的時間」と「カイロス的時間」があるといわれる。いずれもギリシャ神話の神の名に由来している。「クロノス」が物理的時間であり量的に計測可能な時間をあらわし、「カイロス」は元々は「チャンス」の意味であり、また刻むという意味から刹那的な時刻をあらわしているのだが、内的に感じる時間の長さの意味もあるとされる。

ところで時間は過去から現在へ、現在から未来へと進んでいくものだろうか、それとも未来から現在へ、現在から過去へと通り過ぎていくものだろうか。「先」という言葉の使い方をみると、「これから先」とか「この先」といえば未来が先にあるとなる。しかし、「先の副将軍」とか「先の大戦」となったら過去に先があるようだ。腑に落ちるご説明をお聞きしたい。

さて、クロノス的時間は一年365日、1日24時間であって万人にとって等しい時間が経過する。また、昔と今でも変わってはいない。とはいえ、近代化以前と現代とでは費やす時間に大きな変化が生じた。まず、移動に費やす時間だ。地球の面積が1万分の1になったという比喩が使われるのは移動にかかる時間が100分の1になったとすれば100分の1の二乗で面積は1万分の1になったという計算が成り立つからだ。

また、家事についても白物家電などの進化によって時短が進んだのは間違いのないところだ。とすれば今のほうが、時間的に余裕ができたはずであり、ゆっくりのんびり過ごす生活を味わえるようになったのだろうか。ところがそうではなさそうだ。福田恒存氏の昭和36年に「紳士読本」創刊号に掲載された評論を読んだ。その内容を紹介させていただくと、「昔と今とでは忙しさの質が違う、昔は忙しさのうちにも安心して落ち着いていられたのに、今ではその忙しさに安閑と落ち着いていられなくなった、」という。

「暇は出来たがすることも沢山出来たので、もっと有効で能率的な忙しさはないだろうかと気を回す。生産する忙しさを減らしてその時間を消費の忙しさに回すことはできないだろうかと考える。文明社会では、消費が目的で生産が手段だという考え方である。人々は忙しさと貧しさから逃げようとして人手を煩わさず、自分の手も煩わすまいとし、懸命に忙しくなり、貧しくなっている。」

その後ご案内のとおり、大量生産、大量消費で、作れば売れる、売れれば利益が出る、という時代は終焉を迎え、商品はコモディティ化し、そう単純ではなくなっているが、基本的にこの考え方はまだ変わっていない。今は、変わろうとしている過渡期であるかもしれない。

では、どうすればよいかと言うと、福田恒存氏は今更昔のように戻ることはできないので、心がけを変えるだけのことだと、「人はパンのみにて生きるものではないと悟ればよいのである。そうしないとパンさえ手に入らなくなる」という。

「カイロス」には感じる時間の長さという意味もあると書いた。量的には同じ時間の長さなのに場合によって長く感じたり短く感じたりするものだ。安心して落ち着いていられれば時間はゆったりと流れてくれるのだ。生産性を向上させたその先にはそうでありたい。

*参考書籍 「保守とは何か」福田恒存(文春学芸ライブラリー)

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