船室には30日分の食糧や水、行灯の油だけ 生還するあてのない過酷な航海「補陀落渡海」とは

小嶋 あきら 小嶋 あきら

 南方の海上にあると信じられた、補陀落浄土(ふだらくじょうど)を目指して、大海原に船を出す。観音信仰の捨身行のひとつ、「補陀落渡海(ふだらくとかい)」はかつて、日本のあちこちで行われたといわれます。その中心となった、那智勝浦の補陀洛山寺(ふだらくさんじ)を訪ねました。

熊野は補陀落渡海の中心だった

 補陀落というのはサンスクリット語のポータラカのことで、インドの南海上にあるとされた観音菩薩の浄土のことです。チベット・ラサにあるポタラ宮の「ポタラ」も、このポータラカのこととされます。日本でも古来、遥か南海上にこの補陀落浄土があるとされて、そこへ渡る、つまり渡海するということが行われてきました。

 補陀落渡海の船は日本各地から出たとされますが、目的地は南海上ですから、もちろん南に向かって海が開けた場所が条件です。特に紀伊半島の南、熊野ではもともと「海の彼方に常世の国がある」と信じられていて、そこにこの観音信仰が結びついて渡海が行われるようになったとされます。

 那智勝浦の補陀洛山寺では、この補陀落渡海が盛んに行われました。最初の渡海は平安時代、貞観10年(868)の慶竜(けいりゅう)上人。以来1722年までの間に25人が渡海したとされます。

 渡海の船にはほぼ箱のような船室があって、その四方に小さな鳥居が建てられます。観音信仰ですからこれは仏教の行なのですが、そこに鳥居を建てるのは神仏習合ということですね。この船室には30日分の食糧や水、行灯の油などが積み込まれますが、行者が乗り込むと出入り口を塞ぎ、外から釘を打ち付けて絶対に出られないようにしてしまいます。

 そして、二隻の船に沖へと曳かれて行って、やがて曳き綱を切られると補陀落渡海の長い航海に出るのです。この綱を切る辺りにある島は「綱切島」と呼ばれたといいます。

初冬の北風に乗って、南へと流される

 補陀落渡海が多く行われたのは11月、北風が吹く時期だったとされます。綱を切られた補陀落船はこの北風で沖へ沖へと流されるのです。そしてその後どうなってしまうのかは誰にもわかりません。おそらく波間を漂流して、やがて沈んでしまうのでしょう。修行を重ねた徳の高い僧侶が、最後に行う捨身行。当然のように年配の方が多かったといいますが、中には戦国時代、世を憂いて18歳で渡海した例もあるそうです。

 ほぼほぼ生還する可能性のない旅立ちですが、十六世紀に渡海を試みた日秀上人という人は、黒潮に逆行して西へ流されて沖縄へ漂着し、彼の地で熊野信仰を広めたとされます。これはもう奇跡に近いような確率ですね。

 江戸時代には、金光坊という僧侶がこの渡海船から脱出し、島に泳ぎ着いたところを見つかって再び海に送り出されるという事件が起こりました。この島は今も「金光坊島」(こんこぶじま)と呼ばれています。

 以来、補陀落渡海は生きたままではなく、亡くなった後に生者として送り出すようになったとされます。

現在の補陀洛山寺を訪ねてみました

 那智勝浦新宮道路の那智勝浦インターチェンジを出て、県道43号を東に折れるとすぐ左手に補陀洛山寺があります。1990年に再建された立派な本堂には、ご本尊の千手観音が据えられています。境内には再現された補陀落渡海の船があり、また本堂の裏手、少し山に入った場所には渡海上人の供養塔が残されているのですが、ひと気の無い平日の午後に訪れたせいかちょっとぞくっとするような気配を感じる場所でした。

 補陀洛山寺は国の史跡「熊野三山」(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の一部です。境内に隣接して、熊野三所権現を祀る熊野三所大神社があります。補陀落渡海があった頃、この神社の鳥居から先はすぐに海だったそうです。

 いまは海岸線が遠くなり、鳥居の向こうを車が行き来していました。

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