通過待ちで差し入れ、意外なあだ名も…運行終了の「鮮魚列車」元運転士が語る思い出

広畑 千春 広畑 千春

 日本で唯一残る行商専用列車だった近畿日本鉄道の「鮮魚列車」が13日、ラストランを終えました。半世紀にわたって、伊勢でとれた新鮮な魚介類を大阪まで届け続けた列車。その知られざる姿を、かつて車掌・運転士として乗務していた男性が語ってくれました。

 三重県の一岡浩司さん(58)。1980年に近鉄に入社し、83年から名張列車区の車掌、86年から運転士として、鮮魚列車やアーバンライナーなどに乗務。今は異例の転職をし、笠松競馬場の公認予想屋をしています。一方、鮮魚列車は「伊勢志摩魚行商組合連合会」の貸切列車として1963年に運行を始め、日曜祝日を除く毎日、宇治山田から上本町までを1往復運行し、新鮮な海の幸を届けてきました。

 ―運転士さんや車掌さんにとってはどんな電車だったんですか?

 「車掌時代は正直、普通の電車より気が楽でしたよ(笑)。なんせ、切符を売らなくていいし、クレームもないですから。行商人は男性が大半で、魚が入った大きなカンカンや荷物をたくさん持ってね。上本町駅では通常一番奥まで入るんですが、鮮魚列車だけは市場に近いように随分手前に停車させていたんです。駅に着いたら、窓を開けて荷物を下ろす人もいましたね」

 ―愛された電車だったんですか?

 「ええ、そうですねぇ。運転士の間では、88年にデビューしたアーバンライナーに引っ掛けて『フィッシュライナー』と呼んでたんです(笑)。鮮魚列車は朝5時ごろに宇治山田駅を出発して、ゆっくりゆっくり走る。特急待ちがあるんで。のんびり運転できるので、『明日は俺フィッシュライナーやわ』とか言って喜んでいましたね」

 ―一番古い車両にも乗務されたご経験があるとか。

 「私が乗務していたのは初代と2代目だったと思います。初代は戦前の車両を改造して使っていて、かなり古いものでしたけれど上手に使っていたと思います。ただ、他の電車に比べてブレーキが効きにくくて…。下り勾配が続くと気を遣いました。トイレも無かったので、どうしても間に合わなければ連結部で…という人もいたのか、ホロが臭うことも。今では考えられませんが…昭和ですよね(笑)。でも誰も何も文句言わず、多少急制動でも『ごめん』と一言で済んでいましたね」

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