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「2度目の万博」で働く81歳男性、なぜ「フィリピン館」で? 忘れられない友情の絆があった

国貞 仁志 国貞 仁志

 大阪・関西万博で、1970年の大阪万博に続き外国のパビリオンで働く81歳の男性がいる。55年前は「月の石」で人気を集めた米国館。今回は米国館の隣にあるフィリピン館が職場。「嫁さんも子どももいないし、ちゃんとした会社に入らずドロップアウトしたけど、人生としてはいろいろあるんです」。なぜ80歳を超えて男性はフィリピン館で働くのか。どんな方法を使って採用されたのか。そこにはドラマがあった。

 国内18地域の手織り物で装飾したユニークな外観のフィリピン館。原田義孝さん=京都市北区=は、黒いキャップ帽をかぶり入場整理やもてなしを担当する。勤務はフルタイムで週6回。同館のスタッフは16人体制で政府職員や留学生のほかに日本人が4人いる。原田さんはもちろん最年長だ。同館の広報責任者は「原田さんはフレンドリー。来館者にフィリピンの経験を伝えてくれる」と評価する。

 日本国際博覧会協会によると、海外パビリオンのスタッフ雇用は、それぞれの国が独自に選んでいる。長年外国人の旅行ガイドをする原田さんは「もう一度万博会場で働きたい」と昨秋からフィリピン館の情報を収集した。だが明確なことはわからず、「しびれを切らして」今年1月、マニラの観光省に向かった。事前にメールで履歴書を送っていたがアポイントメントは取っていなかった。用件を伝えると担当者に取り次いでもらえ、数日後に「採用決定」のメールが届いた。

 70年大阪万博は高度成長のただ中にあった。原田さんは当時26歳。定職につかず「ふらふらしていた」が外国への興味は人一倍あった。開幕を控え建設が進んでいた米国館に行き「雇ってくれ」と直談判した。

 業務は関係者の受付。「月の石」が展示され、館外にまで連日長蛇の列ができていた。「海外に行ったことのある人も少ないからパビリオンを出す側も熱意があった。力の入れ方が、今の万博とは違うような気がします」と懐かしむ。

        ◇

 フィリピンとは、数奇な縁で結ばれている。

 大阪万博から2年後、政府の「青年の船」事業に参加した。東京を出発してアジア、オセアニアを約1カ月かけて周遊する。船内では日本人の若者たちが4カ国の同世代の外国人と一緒に生活し交流を深めた。

 その時仲良くなったのが「Ariel(アリエル)」という名のフィリピン人男性だった。帰国後、フィリピンに招かれ、1週間ほど自宅に泊めてもらい歓待を受けた。忘れられない旅になった。ところがその後、彼は25歳の若さで亡くなった。

 年月がたち、15年ほど前、ふと旧友のことが頭に浮かんだ。古い手紙を頼りに現地を訪れるとアリエルさんの母と兄に出会え、墓前で供養することができた。

 フィリピン滞在中、ホテルからショッピングセンターまでの道中にある銀行の軒下を通ると、母と一緒に路上生活する7歳の少女がきまってほほ笑んでくれた。「アリエルさんには何もできなかった。恩返しと弔いの意味で何かしてあげられないか」。いてもたってもいられず、母と少女の一家が住める部屋を借り食費を援助することに決めた。

 その後も夜の街で働かざるを得ない少女たちと知り合い、短期大に進む学費の援助をした。路上で出会った7歳の少女は21歳になり、いま大学に通っている。

    ◇

 原田さんの生活は楽ではない。特にきつかったのが新型コロナウイルス禍のころ。外国からの観光客が途絶え収入は激減した。スーパーで割引シールが貼ってある総菜がその日の献立。それでもフィリピンへの送金は続け、40年以上ためた貯金もほぼ取り崩した。

 「貧しい人を助けていたら自分が貧しくなった。神も仏もないですよ」と頭をかく。と言いながらも、孫ほど年の違う女の子が成長する姿は何よりうれしいようで、スマホには何枚もの画像が撮りためてある。

 京都から連日、万博会場へ通うのは時間がかかるため、原田さんはフィリピン人職員らと大阪市内の宿舎で共同生活を送っている。出勤時は「PHILIPPINES Since 1972」の文字が入った自前のキャップ帽をかぶる。1972年は、亡き友人のアリエルさんと出会った年だ。「アリエルさんが良くしてくれたことでフィリピンのことが好きになった。天国にいるあなたのおかげでこうしてフィリピン館で働いているよと言いたい」

 使い古した帽子の後ろには、黄色の糸で「Ariel」と縫い付けてある。

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