ピン芸の頂点を決める「R-1グランプリ」。その決勝の舞台に、アマチュアで初めて立った男性がいる。「どくさいスイッチ企画」こと青山知弘さん(36)は、神戸市垂水区出身の元サラリーマンだ。人生を変えた一夜から3カ月。青山さんは勤めていた企業を退職し、東京へと活動の場を移した。働きながらコントを磨き続けた理由、そして新たなステージに踏み出したワケとは―。
「エントリー№10、どくさいスイッチ企画!」
その名は、決勝進出者で最後となる9番目に読み上げられた。驚きと喜びで硬直する青山さんに、悔しさを感じているはずのプロの芸人たちが、次々と祝福の言葉をかけてくれる。「それで号泣しましたね…」
中学3年で笑いを取る喜びに目覚めてから、約20年。「今まで1人でやってきたお笑いが、一つの形になった瞬間でした」と夢の舞台を振り返る。
原点は生徒会演劇
川崎市で生まれ、親の転勤のため小学5年で神戸に移り住んだ。生徒会役員になった中学3年のとき、文化祭で初めて演劇の台本を任された。「周りに『今年は面白かった』って褒められて、それがすごくうれしかったんです」
進学した兵庫県立長田高校では廃部寸前の演劇部に入り、脚本や演技の基礎を培った。クラスでは「ただ静かで暗い人」だったが、友人とクラスのレクリエーションで漫才を披露したこともあったという。
当然大学でもお笑いをやりたかったが、合格した大阪大学にはお笑いサークルがない。仕方なく落語研究会(落研)に入ると、これが意外にハマった。4年時には、落研の全国大会「策伝大賞」で優勝を果たす。
「落語家も考えたんですけど、既に企業から内定をもらっていた。優勝したから蹴るのは違うな、と思いまして」。頂点を競った仲間が噺家の道に進む中、悩みながら就職を選んだ。
働きながらネタ磨く
ただ、プライベートで落語は続けた。2013年には「社会人落語日本一決定戦」で優勝。コントでもR―1に4度出場したが、1~2回戦での敗退が続いて14年を最後に諦めた。
転機は新型コロナウイルス禍。客層に多い高齢者への感染を防ぐため、寄席を開きにくくなった。そこで新たな活動の場としたのが、アマチュア芸人が集まるお笑いライブだ。20年秋から仕事終わりや休日にネタをつくり始め、月2~3回は大阪のライブに出演するようになった。
会社員として働きつつ舞台に立つのは、簡単ではない。それでも「自分には趣味がお笑いしかない。人前に出ないとだめだ、という焦りがあった」と明かす。
舞台数を踏み、ライブ仲間のアドバイスを得てネタを磨いた成果は、すぐに出た。R―1に再挑戦した22年、翌23年と連続で準々決勝に進出。24年大会の目標を準決勝に定めた。
一方、ある葛藤が青山さんの中に生まれていたという。「自分は仕事ができない会社員なんで。大事な場面で大きなミスをすることもあった。でも、お笑いではどんどん実績が積み上がっていくんですよね」
仕事に自信が持てない自分と、お笑いで結果を出す自分。そのギャップはだんだんと大きくなり、生き方を見つめ直す中での、R-1決勝進出だった。
堂々の4位
「あー!ツチノコだあー!」。3月、きらびやかな決勝の舞台に、黒スーツに青ネクタイで絶叫する青山さんの姿があった。
披露したのは、幻の生き物を発見してしまったサラリーマンの生涯を描くネタ「ツチノコ発見者の一生」。〝憧れ〟という審査員のバカリズムさんから「前半は面白かった」とのコメントを引き出し、アマチュアながら堂々の4位という結果を残した。
ピン芸人として最高峰の舞台に立った青山さんは、退職を決意する。「これまではお笑いを趣味として、細く長くやってきた。でも1回、本腰を入れて取り組んでみたいと思って」。そして、うれしそうにこう続けた。「やっぱり、お笑いが面白すぎるんですよ」
大手事務所のライブが中心の大阪に比べ、東京はフリーの芸人に門戸を開いてくれるライブが多い。思い切って妻に相談すると、「付いていくよ」と受け入れてくれた。5月中旬、長年暮らした関西を旅立った。
もちろん、30代半ばから芸人として食べていくのは難しい。まずはお笑い活動と両立できる働き方を模索するつもりだ。「とにかくライブに出て知名度を上げて、(脚本の)書き手としてもやってみたい」
お笑いにかける情熱を、趣味から一段上へ。青山さんの新たな挑戦が始まった。
(まいどなニュース・神戸新聞/井沢泰斗)