1960年代末、グループサウンズ「オックス」のボーカリストとして一世を風靡。1975年の演歌転向以降も数々のヒット曲を世に放ち、日本の音楽シーンに燦然と輝く真木ひでとさん。
筆者がひでとさんと初めて出会ったのは2006年7月29日。大阪・ミナミの精華小学校跡で開催された音楽イベント「ヱビス一番音楽祭」で前座を務めた時だ。ライブ後に「かっこ良かったよ!これから頑張ってね」と労ってくれた優しい笑顔が印象的だった。それからしばらく間が空いたが、数年前にあらためて仕事でご一緒する機会があり、時おり電話やメールをするようになった。
ひでとさんは70歳を迎えた2020年以降、表だった活動をしていない。今どんな思いで過ごしているのか。
一方筆者は音楽活動と平行して、グループサウンズや昭和歌謡の歴史を若い世代に語り継ぐことをライフワークにしている。しっかりお話を聞いておきたいとインタビューを申し込んだところ、快諾してくれた。50年以上のキャリアを前編、中編、後編に分けて紹介していくが、前編は“失神バンド”オックスの野口ヒデトとして一世風靡した1960年代について。デビューの経緯や当時のグループサウンズシーン、一昨年亡くなった赤松愛さんとの思い出など、余すところなく聞くことができた。
こっそり東京のジャズ喫茶に通った
ーー歌手になろうと思ったきっかけは?
ひでと:小さな時から歌が大好きでした。中学生の頃に西郷輝彦さんに憧れたんですが、その頃、千葉県の叔父さんの家に居候していて、こっそり東京のジャズ喫茶に通ってるうちに「自分も歌手になりたいな」と。その後、ジャズ喫茶通いがバレて母親と同居することになり、大阪に移住しました。一応、高校受験して合格もしていたんだけど、それより歌手になりたいと家出して、東京に向かう途中で補導されてフイにしちゃいました。当時の僕は「西郷さんと同じ17歳までにデビューしなければいけない」と思い込んでいて、すごく焦っていたんですね(笑)。
ーーその後、どうされたのですか?
ひでと:家出にはこりごりしていたので、ひとまず地元から攻めようと。「歌わせてほしい」と大阪・ミナミのジャズ喫茶・ナンバ一番の門を叩きました。7、8回目でようやく支配人と会えて、いろんなバンドを紹介してもらったんだけど、当時のバンドってほとんど洋楽ロックのコピーだったんです。その頃、僕が英語で歌えた洋楽はピーター・ポール&マリーの『500マイルもはなれて』と『虹と共に消えた恋』くらい。ロックもよく知らなかったのでどこにも拾ってもらえず、最後のチャンスだと紹介されたのが木村幸弘とバックボーンでした。
ーー横山ノックさん、上岡龍太郎さんらによるお笑いトリオ「漫画トリオ」のバックバンドをしていたグループですね。
ひでと:はい。バックボーンのオーディションで布施明さんの『霧の摩周湖』、ブルー・コメッツの『ブルー・シャトウ』を歌ったところ合格。初めはボーヤ(※雑用)兼メンバーみたいな感じでしたけど、ようやく歌手活動を始めることができました。
ーーバックボーンではどんな曲を?
ひでと:初めは青春歌謡やブルー・コメッツばかり歌っていたんですが、1カ月くらいするとバンマスから「洋楽のロックを歌え」と。それでナンバ一番の楽屋口の前にあったペンギン堂というレコ―ド屋さんの店長に相談したところ、勧められたのがビートルズの『のっぽのサリー』。それをロカビリー時代の平尾昌晃さんや山下敬二郎さんを参考にした激しいパフォーマンスで歌ったところ評判になって、あっという間にナンバ一番でブロマイド売上1位になりました。その後、ローリング・ストーンズも歌うようになるんだけど、ペンギン堂の店長に聴くよう勧められたのはライブアルバム。おかげでオリジナルとは違うフィーリングを身に付けることが出来ました。それは後にオックスでカバーした『テル・ミー』にも影響していると思います。
「やっぱり東京に行きたかった」
ーーオックスに加入した経緯は?
ひでと:評判を聞いたバンマスの福井利男さんからナンバ一番に電話が入り、近所の喫茶店でお話しすることになりました。東京進出するためにメンバーを集めているということで興味はあったんですが、その時はまだバックボーンに入れてもらって3カ月くらい。今、抜けるわけにはいかないとお断りしました。でも福井さんは諦めずに何度もアプローチしてくるんです。知らなかったけど、母親のところにも行ったりしてたみたい。1967年12月、漫画トリオの梅田コマ劇場公演に出演した時も観に来てくれて、あらためて誘われたんだけど、その頃、僕はコントでけっこう重要なポジションを任されていました。ノックさんの頭を洗面器で叩きに行く役(笑)。とても良くしてもらっていたので、抜けると言ってもノックさんが許してくれないだろうなと。
ーーオックスに行きたいという気持ちはあったんですね。
ひでと:はい、本心ではやっぱり東京に行きたかった。後日、オックスのライブに顔を出したんですが、演奏を聴いていたら心が動いていくんですね。断るために楽屋に行ったのに、メンバーたちから「ぜひ来てくれ」と懇願されて、無理やり衣装やブーツのサイズを測られたりしてるうちにもうやるしかないと。それで恐る恐るノックさんにお話に行ったんところ、「東京行けるんか?じゃあいいわ」といとも簡単に移籍を認めてくれたんです。年末の千秋楽まではバックボーンとして漫画トリオのバックを務めて、翌年1月1日からオックスのナンバ一番公演に合流しました。
ーーオックスのレコードデビューは1968年5月5日。加入からデビューまでとんとん拍子ですね。
ひでと:1月後半から来日したザ・スプートニクスの前座で関西中を回って、大きな反響がありました。アンプを倒したり、楽器を壊したり、そこまで過激なパフォーマンスをしているバンドは他に無かったから目立ったんですね。さっそくビクターの担当者とゼネラル・アート・プロデュース(のちホリプロに吸収)の社長がスカウトに来て、3月初めには東京でデビュー曲のレコーディングが始まりました。
ーーそれが『ガール・フレンド』ですね。
ひでと:はい、デモテープでは『おんな友達』というタイトルでした。さっそく聴いてみたんだけど、仮歌がすごく下手でね…。「果たしてこんな曲が売れるんだろうか」と不安になったんですが、後で聞いたら作詞・作曲を担当した橋本淳さんと筒美京平さんが歌っていたそうなんです(笑)。今思えばすごく貴重なテープなんだけど、残念なことにどこかに失くしてしまいました。
各地で失神騒ぎ、PTAや教育委員会からバッシング
ーーともあれ晴れてデビューして東京進出。反響はいかがでしたか?
ひでと:3月17日に梅田「花馬車」で大阪さよなら公演を終えて東京に移ったんですが、初めは全然仕事がありませんでした。既にタイガースやテンプターズが人気を博していて、グループサウンズブームの真っ盛り。東京には雨後のタケノコのようにバンドがひしめいていたんですね。東京で一番有名だったジャズ喫茶「銀座ACB」に出たかったけど、なかなか出番が回ってこない。ジャガーズさんが交通事故に遭った穴埋めで、川崎のフロリダというゴーゴーホールに出演したのが初仕事でした。
その後、レコードも発売され、地道にやっているうちに少しずつお客がついてきて、6月23日には有楽町ビデオホールでファンクラブ結成イベント。この日、たまたまタイガースが地方公演に出ていたそうで、予想以上のお客さんが詰めかけました。これが噂を呼んだのか、9月にはワンマンでジャズ喫茶を埋められるようになり、『ガール・フレンド』がランキングのトップ10に。メディアも取材に押しかけました。
ーー瞬く間にザ・タイガース、ザ・テンプターズと並んでグループサウンズブームの頂点に。この頃から「失神バンド」と呼ばれるようになったわけですね。
ひでと:そうですね。『テル・ミー』を演奏しながら僕と赤松愛が失神するというパフォーマンスは以前からやっていたんだけど、9月14日の日比谷公会堂公演からはお客さんまで失神するようになりました。それをメディアが書き立てるものだから、「オックスのライブに来たら失神する」みたいなイメージが広まって、みんな『テル・ミー』じゃなくても失神しちゃう。各地で失神騒ぎが起きて、PTAや教育委員会にバッシングされる原因になってしまいました。
ーーオックス版『テル・ミー』はどのように生まれたのでしょうか?
ひでと:バックボーン時代から歌っていたので、オックスでもすぐレパートリーに加えました。初めは栗山純というボーカルと二人で歌っていたんですが、ほどなく脱退してしまったので愛と歌うことに。人気曲だったので、東京に来てまだ仕事が無い時期に愛と相談してどんどん演出を練っていきました。間奏で僕が台詞を語っているあたりまではまだ冷静なんですが、後半から僕と愛のバチバチした掛け合いが始まる。そしてラストのサビのリフレインでどんどん陶酔して、楽器を壊したりして、最後はベースの循環コードの中で僕と愛だけが歌い続けているという流れです。もの凄く緊張感があった。当時はそこまで分析してなかったけど、あのアフリカンリズムのようなシンプルなリズムの繰り返しも、人を暗示にかける作用があるようです。今、バックバンドの演奏で『テル・ミー』を歌っても、あんな感じには絶対ならない。オックスの演奏で、僕と愛がいたからなし得た現象でしょうね。
協調性がなく変わり者だけど赤松愛は持ってるタイプ
ーーオックスと言えばひでとさんと赤松愛さんのツートップというイメージがあります。
ひでと:イメージ的には僕が陰で、愛が陽という感じでしょうか。愛は協調性が無くて変わり者なんだけど、持ってるタイプ。たとえば大阪のPLランドに出演した時、新幹線に乗り遅れちゃって、愛だけ伊丹空港からヘリコプターに乗って会場に来たんです。僕たちが3曲目を演奏している最中にステージの隣に降りてきたんだけど、ファンの人たちはそれを演出だと思って大興奮してる(笑)。
ーー愛さんはなぜ脱退したのでしょうか?
ひでと:1969年3月に浅草国際劇場で「オックス・ショー」というイベントがあったんですが、その頃からそんな雰囲気を感じました。トレードマークだった茶髪を黒に戻して、一緒に居ても笑顔が無くなって……最後は5月5日の土浦市民会館公演の時に失踪して、そのまま脱退ということになってしまいました。理由は本人にしかわからないけど、結局はオックスの人気を恐れた人たちにそそのかされてしまったということなんだと思っています。
当時、グループサウンズブームはすでに退潮していたけど、後発のオックスにはまだまだ勢いがありました。誰がとは言いませんが、僕と愛を引き離せばその勢いを削ぐことができると思ったんでしょう。一緒に続けていればもっと違う展開があったんじゃないかと思うと悔しいですね。
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真木ひでと(まき・ひでと)プロフィール
1950年、福岡県田川市生まれ。1968年、オックスのボーカル・野口ヒデトとしてデビュー。『ガール・フレンド』、『スワンの涙』などのヒット曲を連発し、グループサウンズブームの一翼を担う。1971年ソロデビュー。1975年「全日本歌謡選手権」で10週勝ち抜き、『夢よもういちど』で演歌歌手として再デビュー。以降も数々のヒット曲を発表している。2020年、70歳を記念してオックス時代から最新録音まで全111曲を収録した5枚組CD集『陶酔・心酔・ひでと節!』をリリース。
公式ホームページ:https://hidetomaki.web.fc2.com/
オールタイムCD集『陶酔・心酔・ひでと節!』商品サイト:https://www.110107.com/s/oto/page/makihideto_box?ima=4106