会社のかわいい「猫会長」が、うちの“家猫”に 老いての闘病・介護でも貫禄の生き様…24歳の大往生を遂げた愛猫・みーさん

古川 諭香 古川 諭香

「火葬の時、係の方に渡すお金を父が無くしたとアタフタ。家族で駐車場を見に行ったり、家中探したりしても見つからなかったのに、父がトイレに行った時、ズボンの裾から一枚ずつヒラヒラとお金が出てきました。最後のお別れで家族が悲しみに沈まないよう、みーさんがイタズラをしたのだと、みんなで笑顔になりました。最後まで家族思いの猫でした」

そう語る飼い主ねねさんは、亡き愛猫ミッキーくん(通称:みーさん)との思い出を振り返る。

細かい事は気にしない、大らかな性格のみーさんはねねさん家族に愛され、24年間のニャン生を謳歌した。

大好きな社長さんのもとで“オフィス猫生活”

みーさんは事務員さんに保護され、パソコン教室と秘書代行業務を営む会社で暮らしていた。


当時みーさんは、1歳未満。ねねさんは、そのパソコン教室へ通い、みーさんと出会った。

それから時は流れ、ねねさんはその会社で秘書代行業務のバイトをし始め、みーさんと再会。会社では6人の女性が交代で勤務し、交代でみーさんのお世話をした。

みーさんは机の上を行き来してお弁当のおかずをねだったり、机の上でゴロンとしてブラッシングを要求したりと、自由奔放。「上から目線なかわいい猫会長」と、パソコン教室に通う方からも愛された。

そんなみーさんが大好きだったのは、社長さん。社長さんは日中、会社にあまり来なかったため、夜に事務所で、みーさんと仲良く過ごしていたという。

2人の絆を微笑ましく見守りながら、社員たちはみーさんを愛でた。長期連休中には、職場に近い社員がお世話をしに会社へ。たくさんの愛情を受けながら、みーさんは穏やかな日常を楽しんでいた。

大好きだった社長さんが事故で亡くなりねねさん宅へ

ところが、ねねさんが務め始めて8カ月後、社長さんが事故で亡くなり、会社がなくなることに。ねねさんは社長さんが亡くなってすぐ、みーさんを家に連れて帰ると心に決めていた。そこで家族に頼み込み、7歳だったみーさんを迎え入れた。

当時、自宅にいた14歳の猫ナナちゃんとは仲良くなれず、別々の部屋で生活することに。みーさんは環境の変化に戸惑い、タンスの裏に隠れ、食事とトイレの時だけ出てくる生活を送った。

ねねさんの弟さんは、寂しがらないようにみーさんを自室に入れ、過ごした。その中では、クスっとさせられたこともあったという。

「窓から見える鳥に手が届くと思って勢いよく飛びついた拍子にカーテンと網戸が破れ、体が半分、外へ出てしまいました。必死な顔で鳴き、弟に助けを求めたそうです」

また、みーさんは毛づくろいが自分でできない不器用さんで、買ったばかりの白いカーペットにうんちを付け、茶色の水玉模様に変えたことも。

「その時、『毛づくろいぐらい自分でしろよ~(笑)』と弟に言われ、下手くそながら行うようになりました」

おうちに来て半年後、先住猫のナナちゃんが逝去した際、みーさんは家族の顔を覗き込んで膝に乗ったり、お手手でチョイチョイしたりして気遣ってくれたそう。家族は愛猫の優しい配慮のおかげで、ペットロスから立ち直ることができた。

結婚して実家を出る日に「頑張れよ!」と見送ってくれた

若い頃のみーさんは一番大きい時で7.6kgあり、どこもかしこもまん丸だった。

ケーキやアイスなどのクリームに目がなく、家族がこっそり食べていても、必ずひょっこり現れ、「僕にもちょうだい」と、よくおねだりしてきたそう。

「体は大きいのに、鳴き声はかわいらしかった。加湿器の周りについた雫を舐めるのが日課でした」

みーさんが14歳の時、弟さんは結婚して家を出たそう。その後、ねねさんも結婚が決まり、隣の市へ引っ越すことになった。

こうして、ねねさんの両親と3人で暮らすようになったみーさんは加齢に伴って腎臓の数値が悪くなり、薬を服用するように。投薬を嫌がる猫は多いものだが、みーさんは自らねだるほど、薬の味を気に入っていたそう。

「薬を上手に飲めると、みんなが褒めるので余計に好きだったのかもしれません。目薬などにも、とても協力的でした」

老いていく愛猫に、家族はできる限りのことをした。足腰が弱くなってからはソファーやベッドへ上がるための階段を数か所設置し、トイレの入口を改造。

お母さんは日々、ブラッシングやマッサージ行い、お父さんは、お小遣いのほとんどをみーさんのフードに費やした。

20歳前後になると、耳が遠くなり、前足は変形。トイレ後や食事後には大きな声で鳴くようになった。

「視力はほぼなくなり、目も合わなくなっていきました。咳が出て喘息のように苦しそうな時にはお水を飲ませたり、枕をして寝かせたりしました」

ご飯は一度に少量しか食べられないため、両親は日に何度も手でお茶碗を持ち、食べさせたそう。

「父と母は必ず、どちらかがみーさんの側にいられるように暮らしていました。姪っ子の行事などの時には私が実家へ行き、みーさんとお留守番をしたんです」

最期までかわいく生きた愛猫は今でも愛おしい存在

2023年2月下旬、みーさんは水を飲むことも難しくなった。そこで、家族はみーさんの好みを踏まえ、食欲がなくても食べられそうに思えた細かくしたマグロやカツオのお刺身、ほぐした焼きサバなどをあげ、シリンジで給水。明るい介護がスタートした。

お母さんは昼間に少しだけ仮眠し、ほぼ寝ずに看病。トイレが間に合わなくなっても、みーさんのお尻がかぶれたことからオムツはさせず、したい時にしたい場所で排尿させ、掃除をしていたという。

「かかりつけ医では獣医師の奥様が『みーちゃん、24歳も楽しむんだよね』と言ってくださり、嬉しかった。みーさんがまだ頑張っているのに、家族が弱気になっちゃダメだと思えました」

介護が始まり、1カ月ほどだった3月中旬。脱脂綿で口を湿らせるのが精いっぱいになってきた。そこで、最後の挨拶をしに、弟さん家族とねねさんは実家へ。お母さんが不安そうだったため、ねねさんはその日、実家に泊まった。

別れが来たのは、日付が変わって少ししてから。お母さんと交代でみーさんを抱きながら雑談していると、呼吸が荒くなり、かわいいお手手が3回ほどピクピクした後、みーさんは静かにお空へ旅立った。

「母は必ず見送ると心に決めていたので、抱っこした状態で看取ることができ、ホッとした様子でした。看病をやりきった母も、最後までかわいかったみーさんも2人とも立派でした」

お骨になってからは、様々な人が香典やお花を持ってきてくれたそう。24年間、多くの幸せをくれたみーさんは今も自身が笑顔にし続けた人たちの中で今も生きている。

「迎えた時、すでに7歳だったのに我が家に馴染んでくれ、長生きしながら愛をたくさん与えてくれて、家族はみんな幸せでした。母は、年老いてもかわいく、泣き言を言わないみーさんの生き様を見習いたいそうです」

そう語るねねさんは、いつでも会いに来てほしいとみーさんに愛を贈る。

「父と母が喧嘩しながらでも仲良く元気に暮らせるよう、ふたりの夢にもたまには遊びに行ってあげてください。私はつい最近、夢で少し会ったけど、今度はもっとしっかり顔も見たいし抱っこもしたいので、もう少し長い時間会いに来てね」

この世に肉体はなくても、永遠に家族。みーさんたちの絆に触れると、そんな温かい事実に気づかされる。

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