「播州織の機械はタイムマシンです」 世界のハイブランドで採用された西脇の播州織 若い世代から注目浴び未来へ 

松田 義人 松田 義人

日本には、各地に特色ある地場産業があります。愛媛県今治市のタオル、岡山県倉敷市・井原市のデニム、福井県鯖江市のメガネ、石川県輪島市の漆器、新潟県燕市の金属洋食器、岐阜県関市の刃物など。これ以外にも近年再注目を浴びているものがあります。

それが兵庫県西脇市に根付く播州織。糸を染料で染めてから、その糸を織り合わせて布に仕上げる「先染織物」という技術を用いたもので日本産では実に約70%ものシェアを誇ります。一見シルクスクリーンなどの写真プリントのように見えますが、1本1本染め上げた細い系を織り合わせながら写真のような表現を実現させたものです。

播州織の技術の高さを物語る優れた技術は世界中のハイブランドからも評価されてきました。ただし、それまでの播州織はあくまでもB to Bを貫いてきたため、一般の人々が素晴らしさを知る機会は限られてきました。

近年、この播州織の素晴らしさを一般の人々にも広く知ってもらおうとする動きが高まり、それまでは知らなかった世代、若い世代からも注目を浴びるようになりました。西脇市にある播州織工房館を訪ね、横江真琴館長に聞きました。

戦後海外から注目されるようになった播州織

播州織は、約230年前、宮大工の飛田安兵衛が京都の西陣で織機の作り方を学び地元に広めたという説が最有力です。「それより前から地元で織物をつくっていた人がいた」という説もありますが、横江館長によると播州織はやはり「京都で教わったものである」と地元では認識されることが多いとのこと。そして、この「先染織物」が西脇に根付いたのは「川の水」と「気候」によるところが大きいとも教えてくれました。

「西脇には加古川、杉原川、野間川という3つの川があります。略して『加杉野』とも言うんですけども、西脇の中心部は、この3つの川が合流するんですね。そのため湿度もあり水源も豊富にあり、さらに京都と同じ『夏は暑くて冬は寒い』という風土でもあり、染物、そして綿織物にもちょうど良い立地でした。そのため、『先に糸を染めて、それを織る』という技術が地元で広まっていき、だんだん産業として膨らんでいったわけです」(横江館長)

播州織の最たる特徴である「先染織物」とは、まず糸を様々な色に染め上げ、この色糸を使って、様々な模様に織り上げていくというもの。

明治時代には西脇市内に60〜70軒の播州織を商いとする綿布業者が存在したそうです。戦前は国内業者からの受注が中心でしたが、戦後は海外からのオーダーを大量に受けるようになり、結果、その技術力の高さが世界中で知られるようになり、海外のハイブランドが続々と播州織の生地を採用するようになりました。

「産業が栄えたおかげで、昭和の中盤くらいまで実はこのあたり(播州織工房館がある西脇市中心部)は神戸の三宮と同じくらいの賑わいがある街でした。映画館も5軒くらいあり、学校から家に帰ろうと思っても、楽しいお店がいっぱいあってなかなか家に辿り着けない……そんな時代を私も体験して育ってきています」(横江館長)

儲かった「ガチャマン」時代

当初は、家内工業が中心だった播州織でしたが、当初多くの業者が使っていた手機と呼ばれるアナログ的な機械から工場生産へと移行。「人手が足りない」ということで、四国・九州からたくさんの若い女性が、ここ西脇市に集団就職で移住することになりました。こういった若い女性たちにかわいがられたのが、まだ幼い頃の横江館長で、その頃の風景を今も鮮明に覚えていると言います。

「女子従業員さんたちが楽しそうに笑いながら布を織っていました。そういったお姉さんたちは毎日のように小さかった私のことをかわいがってくれました。当時の写真を見てもみなさん楽しそうに笑顔でした。皆さん楽しく働き、業者の雇用側も皆家族のように仲良く仕事をしていました。そして、休みの日には前述の賑わいのある街でお化粧品や洋服を買ったり映画を見たりして、結果的に地域全体が栄えていきました」(横江館長)

播州織の黄金期を象徴した「ガチャマン」というワードがあります。播州織の需要の高まりから、機織の機械が一度「ガチャン」と動いただけで「1万円儲かる」ということを表したもの。この「ガチャマン」時代には昼夜を問わず三交代で機械を動かす業者も少なくなく、播州織の需要は絶頂期を迎えていました。

再び若い世代がアツい視線を送るように

海外製の廉価な生地や布が流通するようになると、技術力は高いものの高額な播州織は売れ行きが鈍るようになりました。海外のいくつものハイブランドからのオーダーがある一方、生地のみを作る播州織は、一流のブランドで数多く採用されても、それを具体的に謳うわけにはいきませんでした。このように、優れた技術を持ち世界中で採用されているにもかかわらず、周知が難しかったことも播州織が産業として衰退した要因のようです。

2000年代に入ってからの業者減少は著しく、2001年には419あった業者が、2014年には187に減少しました。

「播州織の産業としての衰えの主な要因は『綿織物から廉価な化学繊維が主流になった』ということと周知しにくかったことに尽きますが、しかし、たとえば廉価な化学繊維の大半は、よくよく考えてみれば石油からできたものです。これが長きにわたって捨てられ続ければ、有害物質が増えていくことでもあります。それに比べて綿織物は、腐ったとしても大地に戻りまた新しい息吹きをする……言い換えれば、播州織はSDGsにも合致する循環するものでもあるわけです。こういった綿の良さ、播州織の技術力の高さが近年再評価されるようになり、特に若い世代のデザイナー、クリエイターの方々が『他にはない生地』として注目してくれるようになりました。そして、多くの国内ブランドが播州織の生地を採用していることを周知してくれ、ここからまた若いデザイナーの卵のような方々も多く西脇市に来てくれるようになりました」(横江館長)

「播州織の機械はタイムマシンです」

横江館長によると、播州織だけが盛り上がるのではなく、他地域に根付く産業と連携し、互いを支え合いながら「日本の技術力」を再認識してもらい、高めていくことが大切だとも言います。

「これまでも実は多くのコラボレーションをしてきました。播州織で織ったジーンズを岡山で縫ってもらったり。このように各地に根付いた技術と連動した取り組みことを行うことで、結果的に双方の技術力の認知につながり、再び活性化につながるとも思っています」(横江館長)

横江館長は播州織工房館に展示されている機織の機械を前に「これはタイムマシンでもあるんです」と話してくれました。

「私たちのように、地元で播州織に親しんできた人にとっては、機織の機械の『音』を聞けば、幼少期の頃にすぐ戻ることができます。そして、それまでは播州織を知らなかった若い世代のデザイナー、クリエイターにとっては、『自分たちがこの機械と技術で、どんな作品を作ることができるだろうか』という未来を描くことができるものでもあります。このように、播州織の機械はめちゃくちゃいい仕事をしてくれるタイムマシンでもあるわけです」(横江館長)

播州織工房館
http://www.umekichi-tmo.jp/kouboukan/

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