1990年オフ、両リーグ最下位球団同士による「5対4」というNPB史上最多複数トレードが成立したのを覚えているだろうか?その一員として阪神からダイエー(現ソフトバンク)に移籍した岩切英司さん(59)は現在、福岡市内を走るタクシー運転手。現役時代は不運がつきまとったが、育成コーチとしての人望は厚かった。その人柄の良さは、いまに生きているようだ。
明るく、元気に。車内では、お客様に癒やしの空間を感じてもらえるように心掛けている。西日本タクシーの乗務員として1年あまり。周囲の評判は良く、岩切さんは早くも堂々のスタメンだ。
コロナ禍でも楽しく仕事「感謝」
「野球人生では、これ以上ないと思うくらいのつらい、厳しい立場で戦ってきた。いまは野球で培った経験を誇りにハンドルを握っています」
楽しみのひとつは福岡ソフトバンクホークスの本拠地ペイペイドームへの送迎。思わず野球談義に花を咲かせてしまうと言う。
「お客様の中には岩切と言う名前を覚えていてくれる人もいて”2軍の試合を観た”なんて言ってくれます。これも野球をしてきたお陰。仲良くしていた審判の人や、評論家の方も利用していただいています。コロナ禍でも楽しく仕事が出来ています。感謝です」
プレーヤーとしてはどちらかといえば地味だった岩切さんがインパクトを残したのは、1990年オフに球界をざわつかせた大型トレードではなかったか。阪神側から岩切さんを含め、池田親興、大野久、渡真利克則の4人。ダイエー側から”ニャンコ”の異名をとった藤本修二、西川佳明、吉田博之、”両投げ”の近田豊年、右田雅彦の5人という組み合わせとなった。
実は舞台裏では開幕前から動きがあった。当時のダイエー・田淵幸一監督が狙っていたのは俊足外野手の大野。水面下でスムーズに進んでいたが、かつての同僚、阪神・中村勝広監督から「村山さん(阪神前監督)の紹介で入った選手なので、すぐには出せない」とドタキャンの連絡が入った。
シーズンオフになってトレード話が再燃。その後、人選は混沌としたが、編成にも関与していた当時のダイエー・黒田正宏へッドコーチが「池田か中西(清起)のいずれかはほしい」と画策したことで複数トレードに発展したわけだ。
しかし、岩切さんは決して”おまけ”ではなかった。大阪府立城東工から社会人野球の京都大丸へ。休部となったため、住友金属鹿島に移籍したが、このとき、強肩に注目していたのが黒田と同じ法政大出身で先輩でもある阪神・田丸仁スカウトだった。岩切さんは移籍1年目からプロ入りを勧められたが、都市対抗を終えてからということで2年目の1983年、ドラフト6位で阪神へ。田丸ラインで阪神にも籍を置いていた黒田がヘッドとして、このときダイエーにいたのが運命的でもあった。
阪神からダイエーへ しかし不運が続く
当時、岩切さんは29歳。結婚し、4歳になる男の子がいた。さらには、2人目がお腹にいたのだ。福岡に行くことは抵抗はあったが「条件が良かった」と正直に打ち明けた。
「あの年は、阪神では一番多く試合に出ていましたからまさか、とは思いました。当時は生活的には厳しい状況でしたが、ダイエーさんが給料アップ(1000万円)してくれたので(笑)」
新天地ではインサイドワークと強肩で勝負するつもりだったが、権藤博投手コーチの方針とはかみ合わなかった。「権藤さんはベンチからすべて捕手にサインを送っていました。あれでは捕手の立場は丸つぶれです。捕手が育たない」
移籍1年目。控えだった岩切さんにビッグチャンスが巡って来た。1991年4月中旬。藤井寺球場で先発マスクを被った。その前の西武戦で正捕手の吉永が清原とホーム上で激突。脳震盪を起こして倒れたのである。レギュラーへの最大の好機。だが、三塁送球の際に右肩に激痛が走った。
「滅多にないチャンス。だから誰にも言わないで隠し通して試合に出ていました。それが悪化の原因。結局、治りませんでした」
不運は続く。ダイエーは低迷し、田淵監督はオフに解雇。参謀役の黒田ヘッドも福岡から去った。王貞治監督になり、根本陸夫管理部長が連れてきた有本義明氏が2軍監督に就任。捕手としては復活の見込みはなかったが「若い投手を育てるリードをする。選手に信望がある」として、95年から育成コーチを5年間任された。
その間、のちにメジャーリーガーとなる川崎宗則らとも汗を流し、プロとしての心構えを諭した。再会したムネリンから「あのときはありがとうございました」と言われ、涙が出たと言う。
あの大エースの斉藤和巳が故障した際にはリハビリを見守り、自身の経験を伝えたこともある。「怪我を隠しながらやっていると、結局はチャンスを失う。そんな話もさせてもらった。斉藤が感謝してくれた事がいまでも誇りですし、財産です」
14年間いた球界から離れた後は中洲の大型複合ビルの管理を19年。一時、体調を崩したが、昨年4月から知人の紹介でタクシー会社に就職した。ドラフト同期で阪神から一緒にトレード移籍し、評論家として活躍する池田親興が仕事の時に乗車して営業に協力してくれていると言う。
「栄光なき野球人生でしたが、プライドを捨てればなにも怖いことはない。だからコロナ禍の苦しみなんて感じませんよ。出会いが楽しい」
いまは独り身だが、生きる力は失っていない。岩切さんは安全第一をモットーに、軽やかなハンドルさばきできょうも福岡の街を走っている。