「自粛警察」という言葉が注目を浴びています。営業を続けるお店や外出している人々に警笛を鳴らし、地域の秩序を守ろうとする自警団のような響きですが、その心理的背景には、目には見えないウイルスへの不安や集団に同調しない他者への疑念などが存在していると考えられます。
人は不安や緊張状態に陥ると自分の身を守るために「闘争・逃走反応」という防衛反応を示します。
自粛警察の本質は、社会の団結ムードに自身の闘争心を重ねて、同調しない者を仮想の敵としてみなし、エネルギーを対象者に向け屈服させようとすることにあります。
現在は、娯楽施設の利用やスポーツ観戦等もできず、個人のエネルギーを消化させる場所が少なくなっているのも背景にあるのかもしれません。
こうした心理的メカニズムは、“いじめ”や“あおり運転”、“犯罪”の中にも存在します。
注意をしたことがきっかけで加害事件を起こしたある男性は「自分のやり方がいいとは思っていないが、周りに合わせない相手の行動にイライラしていた。自分が我慢してストレスになるくらいなら吐き出した方が自分の健康にいいと思った。」と語りました。
自粛警察においても、自分が我慢して耐えるくらいなら、多少強引であったとしても、怒りを解消させる方法を選ぼうという結論に至っている可能性が考えられます。
自分が発した言葉によって相手を屈服させるという体験は、自己の存在意義を高める要因ともなりえます。
しかし、人間の心理や行動が真に変化するためには、深い信頼関係に基づいた思いやりのある言葉がけをすることが大切となります。そのため、関わりのなかった第三者が行動を変えるように注意喚起しても、相手の心には響かず、トラブルの種になる恐れがあります。
また、相手に強要を求める事案は家庭内でも起きています。ある会社員の女性は、「仕事から帰宅すると母親から体にアルコールを吹きかけられ、すぐにシャワーを浴びるように指示をされ、まるで自分が菌のように扱われている。母親の過敏さに耐えられない。」と語りました。
目には見えない心理的な不安は、身近な者に対しても向けられており、当人も自覚できないままに様々な二次的な問題を引き起こしています。
集団での規律や調和を重んじる心は、日本人の美徳とされる点でもありますが、昨今は情報化、個人主義が進み、自分が知りたい情報だけを取捨選択し、偏った考えに陥りやすい環境にもあります。
こうした環境下では、自分が見聞きした情報を一方的に過信して、他者の言動や行為を批判しやすくなります。
そのため、自粛警察は自粛が緩和された後も、感染防止に軸を移し、家庭や学校における過度な除菌の強要や誹謗・中傷といった「除菌警察」につながっていく可能性もあります。
こうしたことを防ぐには、どちらか一方が我慢するのではなく、相互を尊重することが大切となります。相互を尊重するコミュニケーションの方法には「アサーション」(assertion)という考え方があります。一方的な攻撃型でも、我慢する受け身型でもなく、自分も相手も尊重しながら自己表現していくという考え方です。
お互いが相手の側にも立った思いやりのある対案を一緒に考え、ともに協力し合う姿勢を持つことで、自分も他者も尊重した関係を築くことができます。
今後も引き続き、感染防止に努めることは大切です。そして、過度な強要や行き過ぎた言動とならないために、私たち一人一人の中に不安に基づく攻撃的な防衛反応が眠っているかもれしれないことを自覚し、一方的な情報は過信し過ぎず、自分の言動が相手を傷つけていないか冷静に振り返ることも大切です。