織田信長は京都ぎらい?-。中世史に詳しい奈良大の河内将芳教授が、「宿所の変遷からみる信長と京都」を出版した。信長が上洛し、本能寺の変で死去するまでの京都における足跡を分析。安土や岐阜の居城から通い続ける一方、在京しても旅先のごとく寺院に寄宿し、滞在を必要最低限にとどめており、天下人と京都の微妙な距離感が浮かび上がる。
信長は1568年、足利義昭を将軍に就けるために上洛し、82年に明智光秀の謀反により本能寺で自害した。河内教授はこの間の公家や僧侶の日記などを基に、在京した宿所や日数、目的をひもといた。
信長の在京は当初、将軍家に関わる「武家御用」を中心に据えていたという。ただ、長くても3カ月ほどで、69年の義昭御所「武家御城」(旧二条城)を築くためだった。数日間で去ることも多く、戦国大名の浅井や朝倉、本願寺などとの合戦に明け暮れていたためとみられる。
加えて、正月を京都で迎えたのはゼロ。為政者が年頭に従者からあいさつを受ける礼を重視していた点を踏まえると、本拠の安土や岐阜と一線を画していた姿勢がうかがえる。
室町幕府を滅ぼして天下統一に近づいても、内裏の修理など「禁中守護」の用向きがある場合にしか在京しなかった。76年に安土城を築き始めたころ、「二条殿御屋敷」も築いて使ったものの、2年ほどで親王へ譲渡。かつてのように妙覚寺や本能寺に寄宿する形に戻る。あいさつで宿所を訪ねた公家らは「対面なし」などとそっけない応対を記し、安土では歓待したという逸話と対照的な態度だった。
河内教授は、信長の振る舞いについて、京都を中心とした畿内文化を取り入れた一族で育ち、その常識や教養を無意識に身に付けたゆえ、京都への遠慮があったとみる。京の礼儀作法や先例までは通じておらず、度を過ぎた飲酒が日常だった公家社会になじめなかった点も背景にある。「京都を外した天下統一はなく、天下人・信長の悩みは尽きなかっただろう。京都と信長の関係は言い過ぎかもしれないが、不幸な関係だったように思える」としている。淡交社刊、1944円。