「知らない」が言えない——50代会社員の“わかったふり”習慣
長年会社勤めをしていると、妙な癖が身につくことがあります。
それは、「わからないのに、なんとなく乗り切る力」です。
50代の会社員Dさんも、そのタイプでした。
会議で知らない言葉が出ても、とりあえず頷く。意味が曖昧でも空気を読みながらやり過ごす。「今さら聞けない」「知らないと思われたくない」。そんな思いが積み重なり、Dさんにとって「わかりません」は、絶対に使いたくない言葉になっていました。
しかし、その性格が思わぬ場所で裏目に出ます。
それは、会社の健康診断でした。
「上?下?右?左?」——視力検査で始まった小さな混乱
問題は、片目を隠し、「C」のような記号の開いている方向を答える、あの視力検査。
最初は順調だったのです。
ところが、記号が小さくなったあたりで異変が…。
「あれ?」
上なのか、右なのか。全体がぼやけて見える。目を凝らしても、わからない。
本来なら、「わかりません」と言えば済む話です。ですがDさんには、それが言えませんでした。
50代にもなって、こんな簡単なことがわからないと思われたくない。そんな妙なプライドが先に立ったのです。
沈黙の末、Dさんは勘で答えました。
「……右です」
しかし、一度答えると後戻りができません。
次も見えない。
でも今さら「実はわかりません」とは言いづらい。
「右……です」
「下……ですかね」
だんだん語尾が弱くなっていきます。
ついには検査員から「見えづらいですか?」と聞かれますが、Dさんは反射的に「大丈夫です」と答えてしまったそうです。
一番大丈夫ではないのは、この検査結果でした。
その後も質問は続きます。Dさんは、どうしても「わかりません」が言えませんでした。
「わかりません」を言えないまま、Dさんは勘で答え続けます。 しかも、不思議とたまに当たるのです。
後半はもはや視力検査ではなく、なんとなく自然そうな方向を選ぶゲームだったといいます。
数週間後、眼鏡がまったく合わない
その後、健康診断の結果をもとに新しい眼鏡を作ったDさん。
ところが、どうにも見えづらい。
パソコンの文字がにじみ、会議室の資料もぼんやり。階段の段差まで少し怖い。
違和感に耐えきれず眼鏡店へ相談すると、店員から「度数が合っていないかもしれません」と告げられました。
その瞬間、Dさんの頭に浮かんだのは、あの視力検査でした。
見えていないのに勘で答え続けたこと。「大丈夫です」と言い切ったこと。そして、「わかりません」と言えなかったこと。
結局、再検査へ。
そしてDさんはようやく、プライドを捨てて「わかりません」を口にし、「本当は見えなかった」と打ち明けたそうです。
そして再検査の結果、眼鏡は無事作り直しに。Dさんは「あのとき素直に『見えません』と言えばよかった」と、少しだけ肩を落としたそうです。