広島県にある福山城は、JR福山駅から道路を渡ってすぐ。大人の男性ならわずか10歩ほどで石垣にたどり着ける「日本でいちばん駅から近いお城」だ。その理由や地元の人だけが知る穴場スポットなどについて、福山市役所情報発信課の協力も得て、福山城博物館学芸員の皿海弘樹氏に伺った。
福山城の敷地内に鉄道が敷かれた
「お城」といえば、多くの人が「天守」をイメージする。しかし、本来は石垣、堀、櫓(やぐら)、門、郭(くるわ)などの防御施設も含めたもの。そう考えると、駅から石垣まで「10歩ほど」の福山城は、日本一「駅チカ」のお城なのだ。
福山城の歴史を紐解いてみると、1619(元和5)年に譜代大名で「福山藩」の初代藩主・水野勝成が備後10万石の領主として入封(にゅうほう)し、西からの防衛拠点として1622(元和8)年に完成した。江戸時代建築最後の、最も完成された名城ともいわれている。
その後、藩主が入れ替わりながら1873(明治6)年に廃城となり、城内にあった建物の多くは取り壊された。1931(昭和6)年に天守が国宝指定されたが、1945(昭和20)年8月の空襲で、御湯殿(おゆどの=浴場)とともに焼失した。
終戦後21年が経った1966(昭和41)年秋、福山市制50周年事業として天守、御湯殿、月見櫓が復元され、博物館として藩主の書画や甲冑などが展示されている。
今は福山城の南側をJR山陽本線・福塩線・山陽新幹線が東西方向に走っているが、もともとは線路の南側も福山城の敷地だった。
これについて、皿海氏はこのように語る。
「明治30年頃の話ですが、当時の福山城は県が管理していました。下関を経て九州へ鉄道を通すにあたって、まず土地の価格が安かったという背景があります。そして国策事業である鉄道建設に協力したことと最短ルートを通るために、福山城の三の丸があった場所に鉄道を通したわけです」
ちなみに、同じ広島県のJR三原駅(山陽本線、呉線、山陽新幹線) は三原城本丸跡を横切るように建てられている。駅の北側から見ると、城跡が駅と一体化している独特の景観を生み出しており、天主台跡へのアクセスは駅のコンコースからというのもユニークなポイントだ。駅からのアクセス面では三原城に軍配が上がるが、天守のあるお城では、やはり福山城がいちばん「駅チカ」といえるだろう。
夕景スポットとしても映える
鉄道の北側、天守が残るエリアは公園として整備され、天守内を中心とした「福山城博物館」は、福山の歴史を伝える役割を担っている。
南側は開発されてしまったが、それでもわずかにお城の痕跡を見ることはできるという。
「鉄道を通す際に三の丸の石垣が壊されたのですが、福山駅の北側の駐車場やロータリー、南側のバス乗り場に石垣が残っている部分があります。それと地中に埋もれていた石を彫り出して組み直しているところもありますから、そういうのを見ていただくと当時の規模感が分かると思います」
歴史的価値の高い福山城は、インバウンドにはまだ広く知られていないようだ。そのため、観光客は圧倒的に日本人が多いそうだ。
皿海氏に、福山城の見どころを尋ねたところ、天守は全国でも珍しい鉄板で守られた仕様とのこと。江戸時代には、砲撃から守るため0.8mmの鉄板が貼られていた。それも復元されているため、北側からは天守が黒く見える。
「新幹線の駅からは天守のほか、空襲の被害を免れた月見櫓や伏見櫓を一望できるスポットがあるのですが、鉄板を貼った北側はわざわざ回り込まないと見ることができません。是非いちど駅から出て、北側へ回ってご覧いただきたいですね」
ちなみに伏見櫓は、築城にあたって将軍・徳川秀忠より下賜を受け、伏見城から移築されたものが現存している。
他にも、福山城から北東方向にある小高い山の上に建つ妙政寺からは、天守の鉄板と東側の白い部分のコントラストに加えて、夕焼けに映える天守が綺麗に見えるそうだ。
「城内の天守北側にある福寿会館からは、天守を見上げるアングルで、やはり綺麗に見ることができます。写真を撮るには絶好のスポットです」
福山城博物館では10月4日から11月24日まで「2025年度秋季特別展『阿部正桓と箱館出兵』」が開催される。明治2年、鞆の浦から乗船した福山藩は函館に上陸し、新政府軍の先鋒となって旧幕府軍と戦火を交え、函館戦争が始まった。そんな関係もあり福山と因縁浅からぬ土方歳三愛刀の和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)と榎本武揚が隕石からつくらせた流星刀を始めとした97点を展示するという。
駅チカの福山城に立ち寄って、歴史に想いを馳せる秋を過ごすのも一興ではないだろうか。
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福山城博物館