【真木ひでとさんインタビュー】番外編・オックス低迷の原因となったある事件 西郷輝彦さん、五木ひろしさんとの交友

中将 タカノリ 中将 タカノリ

1960年代末、グループサウンズ「オックス」のボーカリストとして一世を風靡。1975年の演歌転向以降も数々のヒット曲を世に放ち、日本の音楽シーンに燦然と輝く真木ひでとさん。2月から4月にかけ前編、中編、後編を掲載した。

【真木ひでとさんインタビュー】前編・「僕と愛を引き離したい人がいたんじゃないかな」 失神バンドの栄光とその後 盟友の失踪脱退の真相は(2024年2月25日掲載)

3時間以上におよんだインタビューの中から、これまで紹介できなかった芸能界、音楽界の友人知人との交友録や秘話を紹介したい。

オックスの三大事件

一番はやはり赤松愛の脱退(※詳細は前編)だけど、他にもいろんなことがありました。その一つがけんかですかね。オックスはけんかっ早いグループだと言われていて、ガリバーズと楽屋通路で大乱闘したことは週刊誌にも書かれてしまいました。でも後年、ボーカルの多勢正隆さんとはとても仲良くなったんですよ。モップスともけんかしたけど、話してみたら同じホリプロだとわかって、その後はとても仲良くなりましたね。特に鈴木ヒロミツさんとは、後年もずっと仲良くしてもらいました。

グループサウンズではシャープホークス、ゴールデン・カップスなんかもよくけんかをしそうなイメージですけど、なぜか彼らとは仲が良かったんですよね。意外でしょ(笑)。カップスとは『ガールフレンド』(1968年)の頃、よくジョイントコンサートをしましたね。ステージングも舞台袖から見ていたけど、エディ潘やマー坊(ルイズルイス加部)がアンプに寄っかかったり座ったりしてる中、デイヴ平尾だけが一生懸命歌ってるのが妙にカッコよかった。後になってマモルと話したら、ほとんどオックスのファンだから「やってらんねえなぁ」って思ってそうなってたみたい(笑)。「いくらなんでも普段は立って弾いてるよ」だって。ステージングという点ではテンプターズもカッコよかった。ショーケン(萩原健一)は背中を見てるだけでも熱を感じるんですよ。スターってなるべくしてなるもんだなと思いました。

大阪のサイン会で起こった混乱

もう一つは、これまで誰にも話してないし記事にもなってないこと。オックスは愛が脱退してレコード売り上げが落ちたと思われてるでしょ?たしかにそれも影響あると思うけど、一番の原因は田浦幸(後の夏夕介)が加入した直後の大阪でのサイン会で起こった事件なんです。当時のオックスはまだ半端じゃない人気がありました。だからメンバーも事務所も「屋上の方が安全だと思う」と言ってたんだけど、ビクター大阪営業所の担当者はそのサイン会をどうしてもデパートの店内でやると言うんです。「大丈夫ですよ。警備しますから」と。愛がやめたからそんなに来ないと軽く考えてたんじゃないかな。でもやっぱり蓋をあけてみると大混乱になってしまって、サイン会どころじゃない騒ぎに。しかも、あろうことかビクターの担当者がファンの子を蹴ったか押し倒したか、暴力をふるったんです。

オックスのリーダー(福井利男)はファンを大事にする人だったから、それはもう怒りました。僕は直接その現場を見てなかったからわからなかったけど、あのリーダーが怒るというのはよっぽどのことだと思うんです。結局、サイン会はできずに控え室に帰ってきたら、担当マネージャーが「今夜、料亭で謝罪をしなければいけなくなった」と言うんだよね。「なんで?」「ビクターの人が相当怒ってるみたいだ」「どっちもどっち、痛みわけでいいんじゃないの?」「そういうわけにいかないんだ」というやりとりがあって、結局、僕たちも料亭で土下座させられました。屈辱でしたよ。これまでこんなにビクターの売上に貢献してきたのに…と。今、考えると大阪営業所は自分たちがオックスを支えてきたという自負があったんだろうね。たしかにデビュー曲の『ガールフレンド』は初め、関西地区の売上だけでオリコン50位くらいにずっといたから。

でも本当に大変だったのはここから。一応謝罪が済んだし、メンバーチェンジ後初のシングル『ロザリオは永遠に』(1969年)を頑張るぞと思ってたら、大阪営業所がキャンペーンを一切やらなくなってしまったんです。関西ではいつもベスト5には入ってたので、このチャートが動かないときついよね。それまでみたいにオリコン10位、20位に入ることが難しくなってしまいました。でもそんな状況にも関わらず最高32位までいったのは奇跡だね。楽曲自体は筒美京平さんの自信作だったし、悔しさの残る作品です。

再結成の可能性は

またやってほしいと言う人もいるけど…過去、野口修社長(野口プロモーション)に頼まれて1977年、1981年くらいに再結成したことがあるんだけど、やっぱり一人足りないというのは変だったね。今はさらに欠けてしまっているわけで。だからリアルを知ってる人は思い出にひたり、見たことが無い人は想像を膨らませてもらうのが一番だと思うんです。自分で言うのも変だけど、凄いバンドでしたからね。テレビで当時の映像を見たりすると、「ほんとに僕はあそこに野口ヒデトとして存在したんだろうか」なんて思うときがあるしね。だからオックスはもうやらないと思う。歌は歌い継いでいくけど。

「この人のファンになって良かった」西郷輝彦さん

西郷さんに憧れて芸能界入りした僕ですが、デビューしてからは不思議なほど接点がありませんでした。TBSの大阪万博関連の番組で二人とも出てるのに、すれ違いもしなかったりね。でも、ある日突然、新幹線の中で「真木君、ご無沙汰!」と声をかけられたんです。しかも西郷さんのデビュー30周年の記念コンサートを観に行った数日後のこと。以前、同じスタジオでラジオ番組を録っていた時期があって、スタッフに伝言してサインをお願いしたことがあるんだけど、それで会ったことがあるように勘違いしていただけたのかな。「お会いしたことないんだけどな…」と思いながらも「ご無沙汰してます。先日、カミさんと中野サンプラザに行かせていただきました」なんて適当に受け答えして心臓バクバクでした(笑)。不思議なもので、それからはいろんな所でお会いすることに。

裏表のないとっても素敵な人で「この人のファンになって良かったな」と思いました。よく音楽の話もしましたが、「実は青春歌謡なんて嫌いで、プレスリーみたいなロックが大好きだった」とおっしゃってました。ブルー・コメッツと一緒に番組をやっておられた時期もあるし、グループサウンズに影響を与えたという自負もあったみたい。早くお亡くなりになってしまったことは本当に残念です。訃報を聞いた時はかなり長い間、立ち直れませんでした。最近やっと歌を聞けるようになりましたが、やはり青春がよみがえりますね。今思えば、ツーショット写真撮って貰えば良かったなぁと思います。西郷さんにお会いすると舞いあがって、そんなのすぐ忘れちゃうんだよね。一緒のステージに立ってみたかったです。

五木ひろしさんからは毎年お年玉

楽曲や歌い方も粋で好きでしたし、人柄も器量の大きい尊敬できる方です。五木さんとはオックス解散後に僕がMCをやってたテレビ番組「歌の散歩道」のゲストとして知り合いました。その時に聞いた話ですが、五木さんがまだ三谷謙という名前の頃、『雨のヨコハマ』という曲のキャンペーンで、横浜体育館で開催された「オックス対カーナビーツ」というイベントの転換の中歌を担当していただいたそうです。「GSのファンって優しいよな。けっこう俺のレコード買ってくれたんだぜ」とおっしゃるんだけど、番組にいらした頃の五木さんはすでにいくつもヒット曲を持つスター。気さくに下積み時代の打ち明け話し話をされる姿に感激しました。

その後、僕が演歌転向した時はご縁あって同じプロダクションに。可愛がっていただいて、毎年お年玉をもらったりしてたんですよ(笑)。五木さんが独立する前に、「ひでと、お前の意見も聞かせてほしい」と新曲会議にも呼ばれたこともありました。その時に言ったことがあのヒット曲『おまえとふたり』に反映されたかもと自分で勝手に思ってます。『おまえとふたり』(1979年)は低音の響きと言い、高音の独特のこぶしと言い、五木さんの魅力が詰まった曲ですよね。絶対に売れると思ってましたが、予想通りになりました。真木ひでとの演歌の歌唱法はかなり五木さんの影響を受けてますよ。

「まさに恩師」山口洋子さん

再起を賭け全日本歌謡選手権に出場した時、審査員として僕の演歌を評価していただいたのが出会いでした。再デビュー曲『夢よもういちど』(1975年)から『雨の東京』(1979年)までの作詞を担当していただき、プロデュースもしていただいた、まさに恩師。コンサートにもしょっちゅう野口社長と二人で来てくれて、色んなアドバイスを頂きました。そう言えばSONYのオーディションを受けた時のバックバンドは山口さんが経営するクラブ「姫」のバンドだったんですよ。おかげで、リラックスしてやれたと思います。数々のエピソードや作詞家としてのご活躍からもうかがえますが、本当に華やかな交友関係を持った方でしたね。いろんな貴重な体験をさせていただきましたが、軽井沢の別荘にお招きいただき、たまたまいらしていた五木さんも一緒にお食事をしたことはとても印象に残っています。

僕が独立を考えご意見を伺いに行った時も、「そろそろ独立してもいいと思う」と賛成してくれました。はじめ野口社長は渋っていたんですが、山口さんが賛成してくれたし、SONYの社長も「後押しするから」と言ってくれたので円満退社することができたんです。その少し後に直木賞を受賞されるのですが、その時も東京會舘の受賞パーティーに「真木君にもきてほしい」とお招きいただきました。独立したのに変わらないお付き合いをしていただき嬉しかったですね。亡くなった時、お別れ会に行きました。野口さんの姿もお見受けしたんですが、二人の絆の強さを知っているので、お気持ちが痛いほどわかり声をかけられませんでした。悲しくて最後までその場にいることができず会場を後にしました。山口さんから初めていただいたお手紙は今でも大事にしまっています。

◇ ◇

真木ひでと(まき・ひでと)プロフィール
1950年、福岡県田川市生まれ。1968年、オックスのボーカル・野口ヒデトとしてデビュー。『ガール・フレンド』、『スワンの涙』などのヒット曲を連発し、グループサウンズブームの一翼を担う。1971年ソロデビュー。1975年「全日本歌謡選手権」で10週勝ち抜き、『夢よもういちど』で演歌歌手として再デビュー。以降も数々のヒット曲を発表している。2020年、70歳を記念してオックス時代から最新録音まで全111曲を収録した5枚組CD集『陶酔・心酔・ひでと節!』をリリース。

公式ホームページ:https://hidetomaki.web.fc2.com/
オールタイムCD集『陶酔・心酔・ひでと節!』商品サイト:
https://www.110107.com/s/oto/page/makihideto_box?ima=4106

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